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吉浜地区では明治と昭和の三陸地震津波の経験から二度にわたり道路を山麓側に移設した歴代村長の行政手腕が地域住民の命を救ったのであり石碑のことわざは津波の歴史を伝える機能を果たしてきた。

『郷土とことわざ』

日本ことわざ文化学会・編     人間の科学新社 2014/11

<津波石碑が郷土に伝えたことわざー命を守った言葉、守れなかった言葉  渡辺慎介>

・東北3県(青森、岩手、宮城)には300を超える津波石碑が残されている。その大半を、1896(明治29)年の明治三陸地震津波、1933(昭和8)年の昭和三陸地震津波、そして1960(昭和35)年のチリ地震津波に関する石碑が占める。

 3基の石碑を選び、そこに残された碑文が東日本大震災に際して人々の行動に与えた影響を検証する。それらの言葉は、

1 此処より下に家を建てるな(岩手県宮古市重茂姉吉地区)

2 警鐘を聞いたら避難せよ(岩手県大船渡市三陸町吉浜地区)

3 地震があったら津波の用心(宮城県名取市閖上地区)

である。いずれも、故郷に伝わることわざであり、東日本大震災後にマスコミによって大なり小なり取り上げられてきた。

<東北の津波石碑>

・国土交通省東北地方整備局道路部のホームページには「津波被害・津波石碑情報アーカイブ」が掲載され、そこに入ると「津波被害、津波石碑広域マップ」と「津波石碑広域マップ」と「津波石碑一覧シート」を閲覧できる。青森県に8基、岩手県に225基、宮城県に84基、合計317基の津波石碑の設置場所を地図上に示すとともに、いくつかの石碑の碑文と当該地域における過去の被害状況を記している。1933(昭和8)年の昭和三陸地震津波の後に建てられた石碑が多いのが特徴である。

<此処より下に家を建てるな>

・港周辺の広い土地から坂道の途中に住居地を移したのは、過去の地震による津波で甚大な被害を受けた経験を生かしたからである。1896(明治29)年の明治三陸地震津波では、11戸の住宅すべてが流失または全半壊し、91人の住人の中で死者・行方不明者は75人を数えた。姉吉でその津波の高さは18.3mであったという。その津波の3分の2程度の津波の高さであったと記録されている1933(昭和8)年の昭和三陸地震津波でも、26戸の住宅の半数が流出・全半壊となり、191人の住民の半数が亡くなり、あるいは行方不明となっている。

・住民は、漁業施設を港周辺に残し、集落の住居を港から県道41号線の方向に600m以上登った坂道の途中に集団移転した。東日本大震災では、港で働く住民はいち早く坂道を登って住宅区域まで避難して人的被害を食い止め、また海面から十分に高い居住区域まで津波は到達することなく住居への被害を免れた。

 過去の津波の悲惨な経験を活かし、被害を港周辺の漁業施設と船舶のみに食い止めることができたのは、姉吉に残された津波石碑の役割が大きい。

2011年3月11日の東日本大震災で、津波による被害を最小限に食い止めることができたのは、たった一本の道路に立つ石碑と、そこに刻まれた先祖のことわざを住民が守ったからに他ならない。

<警鐘を聞いたら避難せよ>

・昭和三陸地震津波は、地震発生から30分後に襲来した事実を述べた後に、地震のあと急に潮が引くのは津波の予兆であるから警鐘を打って避難せよ、と迅速な避難を促し、さらに津波は3040年ごとに繰り返すと警告している。

・新たな石碑は吉浜における東日本大震災での被害状況に触れた上で、「被害は他所と比較して極めて軽微であったことから、…『奇跡の集落』と呼ばれ、最も被害の少ない地域として注目」された事実を述べ、それが明治三陸地震津波後の住居の高台移転、さらには昭和三陸地震津波後に行われた再度の住居高台移転や耕地整理に負うところが大きいとしている。

<地震があったら津波の用心>

・津波被害の記録は詳しいが、津波に関する教訓は、「地震があったら津波の用心」、「天災地変は予知が難しいから緊急護岸の万策を講ずべき」、「用心を怠ることなく変に対応する覚悟を持て」などにとどまり、緊急護岸以外は具体性に欠ける。

・昭和三陸沖地震により閖上に押し寄せた津波は、名取川を遡上する波の高さが3m程度と、特に大きくなかった。明治三陸地震の津波は、宮城県の他地区の記録から判断すると、さらに小さいと予想される。しかし、仙台平野にはかつて大津波が押し寄せた記録がある。400年前の1611(慶長6)年の慶長三陸津浪がそれである。仙台平野では、510mの津波であったと推測され、東日本大震災級の津波であったことになる。苦しい経験の記録はすぐに消える。100年に満たない昭和三陸地震津波の石碑が忘れられているのだから、400年前の津波を覚えておけというのは、とても無理だろう。

<ことわざは命を守るか>

・吉浜地区では、明治と昭和の三陸地震津波の経験から、二度にわたり道路を山麓側に移設した歴代村長の行政手腕が地域住民の命を救ったのであり、石碑のことわざは津波の歴史を伝える機能を果たしてきた。道路が故郷を救った。

東北三県の300を超える石碑の中で石碑のことわざが生かされ、住民の安全な避難を誘導することができたのは、岩手県宮古市重茂姉吉地区の「此処より下に家を建てるな」だけであろう。

・一方で、宮城県名取市閖上地区では、市民は石碑の存在すら忘れ、故郷の先人が残したことわざを活かすことができなかった。しかし、津波石碑への無関心は、閖上地区住民に限ったことではない。大半の地域で津波石碑は忘れ去られ、ことわざは無視された。

・津波石碑の碑文ではないが、ことわざが大地震で有効に機能した例がある。それは、津波避難の標語「津波てんでんこ」である。「おのおの」、「めいめい」を意味する「てんでん」に縮小辞の「こ」を付けたのが「てんでんこ」の由来であり、「津波てんでんこ」は、「自分の命は自分で守る」、「津波がきたら取るものも取りあえず、肉親にもかまわず、とにかくおのおのが高台へ逃げる」という実践的、かつ冷酷な津波避難方法を指す。

・故郷の津波石碑に残された碑文、あるいは津波避難の標語、それらのことわざは人々の行動を促す強い言葉のようでいて、大地震直後の混乱の中では避難の行動につながりにくい。しかし、ことわざが被害伝承や避難訓練という疑似体験と結びつく、あるいはインフラ整備による安全地帯確保と結びつくとき、人々の能動的な行動を引き出して先人の意図をよみがえらせ、命を守る。

『反欲望の時代へ』 大震災の惨禍を超えて

山折哲雄 × 赤坂憲雄

東海大学出版会   2011/9/1

・(山折)そして『農民芸術概論』においては「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」というよく知られる言葉が出て来る。賢治を語る時にはかならずといっていいくらい引き合いに出されるメッセージですね。科学と芸術と宗教の幸福な統合をめざす賢治のメッセージと僕も解釈していますが、にも関わらず最晩年になって彼は『グスコーブドリの伝記』を書いた。

・飢饉や災害が発生して現実は非常に厳しい状況であるという認識を賢治は持っていたはずです。賢治の生まれた明治29年は明治の三陸大津波が起き、賢治の死んだ昭和8年には昭和三陸大津波が起きている。象徴的な大地震と大津波の合間を生きてきたのが、賢治の37年間の生涯だったわけです。その生涯のなかで、あのメッセージを考え出して『グスコーブドリの伝記』を書いた。

<津浪と人間>(寺田寅彦)

・昭和8年3月3日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治29年6月15日の同地方に起こったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満37年後の今日再び繰り返されたのである。

・同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において、何遍となく繰り返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学情報から判断される限り、同じことは未来においても何度となく、繰り返されるであろうということである。

・こんなに度々繰り返される自然現象ならば、当該地方の住居は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えて、これに備え、災害を未然に防ぐことができていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのが、この人間界の人間的自然現象であるように見える。

・津浪のおそれのあるのは三陸沿岸だけとは限らない。寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大掛かりなものが、いつかはまた繰り返されるであろう。その時には、また日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかわからないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても他人ごとではないのである。

・しかし、少数の学者や自分のような苦労性の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが一つの事実であり、これが人間界の自然法則であるように見える。自然の法則は人間の力では枉げられない。

<天災と国防>(寺田寅彦)

・国家の安全を脅かす敵国に対する国防等は現に政府当局の間で熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防策は政府のどこでだれが研究しいかなる施策を準備しているか、はなはだ心もとないありさまである。思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのは当然ではないかと思われる。

・陸海軍の防備がいかに充分であっても肝心な戦争の最中に安政程度の大地震や今回の台風、あるいはそれ以上のものが軍事に関する首脳の設備に大損害を与えたらいったいどういうことになるであろうか。そういうことはそうめったにないと言って安心していてもよいものであろうか。

・我が国の地震学者や気象学者は従来かかる国難を予想してしばしば当局と国民とに警告を与えたはずであるが、当局は目前の政務に追われ、国民はその日その日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかす暇がなかったように見える。誠に遺憾なことである。

・寺田寅彦(18781935)は、戦前の物理学者、随筆家で俳人。結晶によるX線解析の実験で世界的に知られ、東京帝国大学教授となり、地震研究所所員として研究を進める一方、金平糖の生成など統計力学的な研究も手掛けた。『寺田寅彦全集』全30巻がある。

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディア(フリー百科事典)によると、『グスコーブドリの伝記』のあらすじは、

「グスコーブドリ(ブドリ)はイーハトーブの森に暮らす樵(きこり)の息子として生まれた。冷害による飢饉で両親を失い、妹と生き別れ、火山噴火の影響による職場の閉鎖などといった苦難を経験するが、農業に携わったのち、クーボー大博士に出会い学問の道に入る。課程の修了後、彼はペンネン老技師のもとでイーハトーブ火山局の技師となり、噴火被害の軽減や人工降雨を利用した施肥などを実現させる。妹との再会もはたすのであった。ところが、ブドリが27歳のとき、イーハトーブはまたしても深刻な冷害に見舞われる。火山を人工的に爆発させることで大量の炭酸ガスを放出させ、その温室効果によってイーハトーブを暖められないか。ブドリは飢饉を回避する方法を提案するが、しかし、クーボー博士のみつもりでは、その実現には犠牲となることを覚悟した誰か一人が最後まで火山に留まる必要がある。ブドリの才能を高く評価するクーボー博士もペンネン老技師も彼をとめようとするのだが、ブドリに冷静に説得されてしまうのだった。そうしてブドリが最後の一人として残り、火山を爆発させると冷害は食い止められイーハトーブは飢饉から救われたのだった」とのこと。


■■■ 私が思うこと、聞いたこと、考えること ■■■

・amazonに「東日本大震災」と入れますと12887件の書籍がわかります。大変な量の関連書籍で個人ではとうてい把握できません。東日本大震災が過去最大の影響を一般国民に与えたようです。

・東北地方の合計317基の津波石碑にもかかわらず、東日本大震災に直面して、教訓が十分に生かされなかったそうです。「その時には、また日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される“非常時”が到来するはずである。それはいつだかわからないが、来ることは来るというだけは確かである」と寺田寅彦が語るように、首都直下大地震津波と南海トラフ巨大地震津波は「天災は忘れたころにやってくる」ようです。幸い、首都直下大地震津波と南海トラフ巨大地震津波が起こることは国民多数の「一般常識」となりましたので、大地震津波対策の政策立案が容易になっているようです。2020年の東京オリンピック・パラリンピックも準備しますが、南海トラフ巨大地震津波と首都直下大地震津波の対策も必要で予算が巨額に必要のようです。残念ながら石碑の教訓を生かせなかった行政当局に問題があったそうです。

・ウィキペディア(フリー百科事典)によると「『天災は忘れた頃にやってくる』は寅彦の言葉と言われるが、著書中にはその文言はない」とのこと。昔は寺田寅彦といえば、「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉と結び付けられてよく引用されていたものです。寺田寅彦は関東大震災を調査し、理化学研究所研究員兼務、東京帝国大学地震研究所所員兼務だったようです。昔の地震の際も地震学者がいろいろと政府に「指導・警告」したようなのです。が、その時は真剣に政府も動いたようですが、時期がたつと、忘れられていったそうです。東大教授の権威ある指導もこの程度らしかったようです。そこで、東日本大震災も4年たちますが、東日本大震災の被害が拡大したのは、先人の石碑の教訓を生かさなかった行政当局が原因のようで残念です。

・昔の時代の寺田寅彦の懸念が、東日本大震災によって、再び実現してしまい「人間界の自然法則(忘れるということ)」が再現してしまったので残念です。日本には多くの地震研究所があり多くの地震学者がいます。が、このたびの東日本大震災が起きる前においては、どのような指導や警告を行政当局にしていたのでしょうか。地震学者と行政当局の連携が十分でなかったようです。地震研究費が無駄になったのではないのでしょうか。地震学者もその研究が実社会に役立たねば意味がないそうです。3階建ての低い避難センターでは逃げ込んだ住民たちから多くの犠牲者が出たそうです。

・私たち一般人は、童話作家として知られている宮沢賢治については詳しくは知りません。が、「4次元的な作家だ」そうです。彼が生きた時代は大変難儀な時代だったようです。ウィキペディア(フリー百科事典)によると「郷土岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に岩手をモチーフとするイーハトーブとなづけた」そうです。また宮沢賢治は「霊媒体質の人」ともいわれています。つまり「あの世」の動きを敏感に感じられる人だったのかもしれません。「霊媒体質の人」は、よく幽霊も見るようです。チャネラー(霊的交流者)もコンタクティ(宇宙人から伝達接触されたという人)も「霊媒体質」の人々が多いのかもしれません。宮沢賢治の作品を研究している人々も少なくないようです。

・ちなみに『グスコーブドリの伝記』は、2012年にアニメーション映画化されました。現在、アニメーションやマンガが「クールジャパン」として海外で人気です。ベトナム戦争前の米国社会では「何でも世界一」というイメージがありましたが、15年間続いたベトナム戦争の戦費で、米国社会が衰え始めたそうです。戦争は莫大なコストがかかりますし社会が劣化します。今後とも平和な社会で「クールジャパン」の対象も増えていくことが期待されているようです。

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・ブログ名称 UFOアガルタのシャンバラ

日本は津波による大きな被害をうけるだろう

・第2のブログ名称:UFOパラレル・ワールド

「神の国か?」「人類の原郷か?」 「天上のエルサレムか?」・・・・・・・・・

「パラレル・ワールドに住む宇宙人、天国に出入りし転生と憑依を自由に操るシリウス星人の殖民星が、地球か?」、「ネガティブのシリウス星人の地球支配があまりにも巧妙なので、しょっちゅう戦争が起こるのだろうか?」

「金髪碧眼のノルディックが住んでいたアガルタのシャンバラ情報の集大成を目指す・・・・・・・・・・」「金星蛇人と火星霊人の戦争はその後どのように展開したのだろうか」
「日本民族の神話の原郷『高天原(たかまがはら)』は、『都市型の超巨大宇宙船』なのか!?」
「小人族のグレイの母船に同乗する金髪碧眼のノルディックは、”悪魔の王””ルシファー”なのか?!」

「円盤は神人や異人、悪魔の乗り物なのか!?」「天使は神の秘密諜報員なのか」

UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象なのか。UFO問題とは、人間にとっての死の問題を解くことなのだろうか。UFOはフリーメーソンの創作なのか!?」

「全宇宙を創ったという“虹の神々”も地球に来ているのだろうか」

「イルミナティなどのフリーメーソン組織に入ると神に会えるのだろうか」

「国際連合の設立に動いたキリストの星、アプ星人とは」

「人は皆、記憶喪失の異星人だろうか」

「はるかに進化した天使のような宇宙人は、人間の守護霊や背後霊なのだろうか」

「セドナ上空に見えないエーテルのシティが滞空するのだろうか」


by karasusan | 2015-04-02 07:21 | その他 | Comments(0)