このみすぼらしい旅人こそが獄之枝尾にかかる悪神を払い、村人に寿福をもたらす山の神と分かるのである。(1)

『柳田國男を歩く』  肥後・奥日向路の旅

江口司  現代書館    2008/11

<訪れる異人――椎葉村獄之枝尾の風景  序にかえて>

・椎葉村獄之枝尾の冬は寂しかった。20061224日、私は宮崎県の椎葉村獄之枝尾の平田神社に佇み、19年前の神楽の熱気と賑わいを思い浮かべた。

「あんたきっと引っかえしてくるが、こっちから見ゆる尾根に、あっだけ雪のあっときゃ、峠越えは、無理じゃが……」と熊本県矢部町の内大臣へ下る所にある、ガソリンスタンドのおばさんの声が耳元で聞こえる。

「えーい、ままよっと」スタッドレスタイヤを装着した四輪駆動車は、積雪30センチの、ガードレールなどない曲がりくねった林道の吹き溜まりを、エクストラローギアで何回も切り抜けた。

 現代の異人(まれびと)は、四駆に乗って雪の峠を超えていく、などと口走りながら県境の椎矢峠を超えた。熊本を午後1時に出発して、宮崎県椎葉村獄之枝尾に着いたのは、1987125日、午後630分、夕闇の中だった。

 裸電球が点々と道しるべになっている急坂を登ると、明々とした平田神社があった。慌ただしく女性たちが働き、人々が集まって来て、獄之枝尾の霜月神楽は始まろうとしていた。そこで、34歳位の男児に、「久しぶりやね」と声をかけられた。「おう、久しぶりだね」と私は答えてやった。おそらく、この村を離れて暮らしている人たちが、神楽の日には帰ってきて一堂に集まる。その時の会話を真似ているのだろう。この年端もいかぬ男児との会話で私は迎えられた。

 破れ笠に蓑、腰に刀、背につづらを負い、杖をついて、みすぼらしい旅人が神楽宿にやって来て一夜の宿を請う。

 村人も客席で固唾を呑んで見守る。みすぼらしい旅人と宿の主人(神主)との問答がワイヤレスマイクを通して始まる。

 宿の主人は旅人に「赤ひげに猿まなこ」などと、姿の醜さをあげて宿を断る。だが、旅人は「我は、山口、中山、奥山に差し入りて、山廻りをして我が山として治めてきた。あらない神とさがない神を、こじいの木のぐうるもと、ただ一刀にうちおとして、やって来た」と宣いその歌妻のいわれの問答の後、このみすぼらしい旅人こそが獄之枝尾にかかる悪神を払い、村人に寿福をもたらす山の神と分かるのである。最後は唄教と入れ替わりのパフォーマンスで、無事宿を借りる事ができると、村人と客からの大拍手で幕がおりる。

 

・この旅人に扮する椎葉春雄さんは、もう20年この役を続けてこられたそうで、着替えたのち、客席にもどり村人たちに「今夜の宿借りはよかった」と喝采で迎えられ、酒をつがれる。椎葉の団十郎だ。

 獄之枝尾の「宿借り」という旅人を迎える儀礼は、村の災厄を払い、幸福を与えてもらうことで、これから1年間の暮らしにかかせぬ演目であった。

19年後のこの年、この地区の1年を締めくくり、椎葉神楽のなかでも古風を残す獄之枝尾神楽は、前年に引き続きこの年も行われなかった。しかし、耳をすませば九州脊梁をなす尾根から霜月の嵐が吹きおりてきて、あの時の賑わいの神楽囃子を奏でてくれる。それにのせられるように、平田神社からほど遠くない距離にある。獄之枝尾のかつての村長だった中瀬淳氏の旧邸へと自然と足が向かっていた。

<椎葉村へ>

・日本民俗学の創始者柳田國男が、九州脊梁山脈の山懐、宮崎県東白臼郡椎葉村へ足を踏み入れたのは、明治411908)年713日のことであった。椎原村では当時の村長、中瀬淳氏等が案内にあたり、7日間に亙り村内を跋渉する。その時の柳田國男は明治政府の高級官僚であり、椎葉の山人にとっては、ふいに訪れた異人(まれびと)でもあった。

 翌、明治421909)年2月には、その時の所産ともいうべき、日向国奈須の山村において今も伝わる猪狩りの故実『後狩詞記』が生まれる。

 著名な『遠野物語』は、さらにその翌年の明治431910)年であり、このことが椎葉村を日本民俗学の発祥地と称させ、獄之枝尾の中瀬淳氏の生家の庭に『民俗学発祥之地』の石碑が建つ所以でもあった。

・「当時この山中を訪れる中央の官僚はほとんどいなかった。ところが法制局の参事官が来ると県庁から電報があって村の者はおどろいた。それまで県の下級官吏の来るときは洋服に脚絆をつけ、草鞋ばきが多かった。参事官はどういう支度で来るであろうかということが問題になり、とにかく道の両側の草を刈り、村の入口の中山峠の上まで村長以下吏員、有志が羽織袴で迎えにゆくことになった。峠の上で待つほどに下から上って来た人を見ればまだ若い、しかも紋付に仙台平の袴をはき、白足袋姿の貴公子で、旅姿ではなかった。これには全く度肝をぬかれた」

・それに名文で語られる宮本常一説の、南郷村の禅門から椎葉に入る峠が中山峠ではなく「笹の峠」であったこと、その時候、炎天下の山道を45時間歩いて峠の直前で羽織袴に威儀を正して、迎える椎葉の村人も羽織袴でタイミングよく出会うことの不自然さをあげ、宮本が聞き書きした証言などは「みな嘘ということになる」と言う。

<河童との邂逅――河童退治職 渋江氏>

河童退治職渋江氏>

19995月のことだった。私は、歴史民俗資料学から河童研究をすすめている神奈川大学の小馬徹教授に誘われて、菊池市隈府横町から昭和5年に同市大字水源に移転していた「天地元水神社」に着き、しばしその前に佇んだ。

 そこが柳田國男の『山島民譚集』(大正3年)の『河童駒引』にある「肥後ニモ河童ノ退治ヲ職トスル一箇所ノ渋江氏アリキ。今ノ菊池神社ノ渋江公木氏ナド或ハ其沿革ヲ承知セラル、ナランカ」の渋江氏の本社であった。

 

<柳田と渋江氏の邂逅>

・私は、明治41531日の柳田國男と渋江公木氏の邂逅で、渋江氏の歴史と水神司祭に少しでも話が及んでいたならば、柳田が興味を示さないはずがないと思う。そして柳田の九州旅行の日程の自由さからみて、翌日は隈府横町にあった渋江本家を訪れ、官民に支持を得た、肥後渋江氏の、ことに河童退治の水神祭祀について、筆をおこさずにはいられない時がすぎたと思う。さすれば、柳田の日本民俗学の出発点の著作は『後狩詞記』より前に世に出ることになる『河童駒引』になりえた、と想像の翼をひろげてみるのである。


『マレビトの文化史』    琉球列島文化多元構成論
 (吉成直樹) (第一書房)  1995/2

マレビトとは、「人の扮した神」を意味する。>
・また、神霊などが人間に憑依することによって、その人間がそれらの霊的存在と一体になり、神霊そのものを表現し、かつ村人など、一定の人々に迎えられる存在もまたマレビトとみなす。
(久高島のマレビト祭祀)
ニライと龍宮という二つの海上他界に結びつくマレビト祭祀が存在している。


(男性年令階梯組織あるいは男子結社によって担われる琉球列島のマレビト祭祀)
1、 マレビトは、海底、地底、海のはるか彼方、あるいは山などの他界から訪れると考えられている。儀礼的には、洞穴、山などから出現することによって表現される。
2、 マレビトは、この世を訪れ、人々に祝福をもたらす。あるいは人々の邪気などを祓う。また、時には、もてなしを受ける。
3、 マレビトは、しばしば全身をクバの葉、蓑、などをつづった姿で出現する。
4、 マレビトは、南島の正月とされるシツ(節)、粟や稲の収穫祭、盆(その前後)など、夏季の重要な折り目に出現する。
5、 マレビト祭祀に付随して、男子結社などへの加入礼が行なわれる場合がある。


(久高島の「ソールイマッカネー」の特徴)
1、
マレビトは、龍宮神としての性格を持つ。ただし、龍宮神は「森」に常在していると考えられている。山、あるいは洞穴からの出現という儀礼的表現は欠落している。
2、 マレビトは、人々に祝福を与え(健康祈願)、もてなしを受ける。
3、 マレビトは、ソールイの正装である黒地の着物、帽子、下駄履きの姿で出現する。
4、 マレビトは、一年の最大の折り目と言うべき8月行事に出現する。
5、 マレビトには、15歳の少年が付き従う。これは成人になるためのイニシエーション的な性格を持つとみなしうる。

・ニライは、五穀などの生活に必要なくさぐさのものをもたらしてくれた世界であり、どちらかと言えば、おだやかで平明な楽土と言った色彩が強い。
これに対して、龍宮は、海の幸をもたらす世界であり、かつ死霊とのかかわりの深い海底の非常に恐ろしいところと考えられている。

『アイヌのイタクタクサ』 (語の清め草)

(萱野茂)(冬青社)   2002/1

<アイヌトレンペ=憑き神>

人にはそれぞれ“ドレンカムイ”“憑き神”というものが憑いていて、その憑き神の力次第で、その人間が豊かにもなるし、力の弱い憑き神であれば、あまり豊かになれないものとアイヌは考えていました。それを信じていたかってのアイヌは酒を飲むときでも杯の上に乗せてある“ドキパスイ”“奉酒箸”の先端へ酒の滴をつけて“クピリカドレンペ、クノミナ”「私のいい憑き神を祭ります」と言いながら左の肩、右の肩、そして頭という順序で酒の滴を付けてから、本人が杯に口をつけました。

 言うまでもありませんが、自分の憑き神が何であるか自分自身で知る由もないわけですが、運のいいとき、あるいは運の悪いときの事を考え合わせて判断します。

『妖怪文化入門』

  小松和彦      角川学芸出版   2012/6/22

<異人・生贄>

<「異人」とはなにか>

「異人」とは、一言で言えば「境界」の「向こう側の世界」(異界)に属するとみなされた人のことである。その異人が「こちら側の世界」に現れたとき、「こちら側」の人びとにとって具体的な問題となる。つまり「異人」とは、相対的概念であり、関係概念なのである。

 ところで、「こちら側」の人びとが想像する「異人」は、おおむね次の四つのタイプに分けられる。

① ある社会集団(共同体)を訪れ、一時的に滞在するが、所用を済ませればすぐに立ち去って行く「異人」。こうした「異人」の例として、遍歴する宗教者や職人、商人、乞食、観光目的の旅行者、聖地への巡礼者などを挙げることができる。

② ある社会集団(共同体)の外部からやってきて、その社会集団に定着することになった「異人」。こうした「異人」の例として、戦争や飢饉などによって自分の故郷を追われた難民、商売や布教のために定着した商人や宗教者、共同体を追われた犯罪者、「異国」から奴隷などとして、強制的に連行されてきた人びとなどを挙げることができる。

③ ある社会集団(共同体)が、その内部の成員をさまざまな理由で差別・排除する形で生まれてくる「異人」。前科者や障害者、金持ちや貧乏な人などが、この「異人」の位置に組み入れられることが多い。

④ 空間的にはるか彼方の「異界」に存在しているとされているために間接的にしか知らない、したがって想像のなかで一方的に関係を結んでいるにすぎない「異人」。海の向こうの外国人や、はるか彼方の「異界」に住むという「異神」たちが、こうした「異人」のカテゴリーを形成している。

・こうした種類の「異人」たちが「異人」とみなされた社会集団の問題になってくるのは、当該集団がその集団としての「境界」を意識し、その集団の構成員とそれ以外の人びとを区別しようとするときである。人びとは「我々の集団・仲間」を作り出すために、その<外部>に「異人」を作り出すのである。この「異人」を媒介にして集団は結束し、その「異人」に対処する作法を編み出し、ときには歓待し、ときには差別や排除に及ぶことになる。

・異人論の先駆的研究として位置づけられる研究は、折口信夫のマレビト論であり、岡正雄の異人論であろう。

・折口の「マレビト」概念は彼自身が厳密な定義をおこなっていないこともあって難解であるが、その概念は二重構造になっていると思われる。一次的なマレビトは来訪神のことであり、二次的マレビトが共同体の外部から訪れる祝福芸能者のたぐいとして想定されている。共同体の人びとはこれと祝福芸能者を「神」そのもの、もしくはその代理人とみなすことによって歓迎し、その祝福を受けることで共同体の繁栄が期待されたのであった。すなわち、共同体の来訪神信仰との関係のなかで「異人」を理解すべきであるということを示唆したわけである。

<異人・生贄・村落共同体>

・すなわち、「異人」をめぐるテーマを検討していくと、その一角に「生贄」のテーマが現れ、逆に「生贄」のテーマをめぐって考察を進めていくと、その一角に「異人」のテーマが現れてくるからである。そして、この二つのテーマを媒介しているテーマが、「人身供犠」(人身御供)もしくは「異人殺害」という説話的・儀礼的モチーフであると言えよう。

・旧来の神に代わって山王社に祀られることになったのは、いかなる「神」なのだろうか、ということである。ここでの文脈で言えば「農耕神」としての山王神ということになるだろう。「しっぺい太郎」の昔話でいえば、外部からやってきた旅の僧などの「異人」や「人間の側の犬」が、そこに祀られていることになるはずである。

<「異人」と「家」の盛衰>

・その物語の一つが最近まで民間に流布していた、次のような物語である。これを私は「異人殺し」伝承と名づけた。「異人殺し」伝承は、怪異・怪談そして恐怖といった要素がたっぷり詰まった伝承である。

 旅人(六部や座頭、巡礼、薬売り)が、とあるムラのとある家に宿を求める。その家に泊めてもらった旅人が大金を所持していることに気づいた家の主人が、その金欲しさに、旅人を密かに殺して所持金を奪う。この所持金を元手にして、その家は大尽になる。だが、殺害した旅人の祟りをうける。

『異人・河童・日本人』

住谷一彦・坪井洋文・山口昌男・村武精一(新曜社)    87/11/25

・メラネシアの社会史より、民俗学で言う「異人」の特徴をまとめたもの。

1、「異人」が幾度にかまた季節を定めて往来したこと

2、「異人」は先住民より亡魂又は死者そのものと考えられたこと

3、「異人」は海の彼方から来るものと信じられたこと。後には、山中の叢林より来るとも信じられるに至ったこと

4、「異人」は畏敬されつつも平和的に歓待されたこと

5、「異人」は食物の饗応ことに初成物を受けたこと

6、「異人」は海岸地に住まずして山中の叢林に住みしこと。(インドネシアの神話でも大体支配民族は天空からやってくるのです。あるいは海の彼方からもやってきて、土地の娘と結婚するといわれています。

7、二つの象徴的二元論の原理というのが形成される。

8、「異人」が土民の女と結婚する必要のありしこと

9、「異人」とその女との間に出来た子供が特殊な社会的宗教的性質を有せしこと

10、「異人」はその「異人」たることを表徴する杖及び「音」を有せしこと

11、仮面が男女二つあること。女「異人」が山中に住むということ。(山中というものは、人間の世界を超える原世界としてイメージされた。人間の世界と人間を超えた世界をつなぐ空間である。)

12、「異人」が訓戒、悪事摘発をなし、豊作をもたらし、又はもたらしめんことを任務としたこと。

13、「異人」が季節殊に収穫季、冬至に関係したこと

16「異人」若しくは神は村にとどまらないと信じられたこと

(「おどまぼんぎりぼんぼんからさきゃおらんど」というのは子守の歌と教えられていますが、外から訪れた「異人」の歌だ、という説があります。)

17、「異人」の出現の際は女子、子供は閉居したこと

18、「異人」のタブーが財産の起源になったという。

19、「異人」がフォークロア化して遊行歌舞団となったこと。(歌舞伎の成立の根源)

20、遊行人は畏装し、杖と音とを有し、饗応を強制し、或いは略奪を敢えてしえること

21、遊行人が神話、神の系譜を語り、或いは之を演技で表現すること。多く季節と関係して。

22、遊行歌謡団から伊達者が発生したこと。(歌舞伎の起源)

23、侮蔑されつつも亦高き階級に属するとされたこと

『物語の世界へ』 (遠野、昔話、柳田国男)

(石井正巳)(三弥井書店)   2004/9

<沖縄のニライカナイ>

・南西諸島では、海の彼方や海底に異郷があると信じられている。沖縄本島では、それを「ニライカナイ」と呼び、奄美諸島では「ネリヤ」「ニラ」、宮古諸島では「ニツザ」、八重山諸島では「ニーラ」などと呼んでいる。

この地域には、本土では竜宮に相当する海底の浄土を“ニライカナイ”と考える昔話が幾つもみつかる。例えば、沖永良部島の「竜宮童子」「浦島太郎」「玉取り姫」「炭焼長者」などの中では「ニラ」「ニラの島」と呼び、喜界島の「竜宮童子」「竜宮女房」「竜神と釣縄」「花咲か爺」などの中では、「ネイ」や「ネィーの島」と呼んでいる。これは南西諸島の昔話の地域的な特色であり昔話の宇宙観の特色を考える上でも重要である。

こうした昔話とは別にニライカナイから初めて稲がもたらされたという伝承もある。稲作の起源を説明する伝承はいろいろあった。

ニライカナイからは、稲の実りをはじめとする幸福を授けて神々が村落を訪れる、と信じられている。その様子は祭りの中で、村人によって演じられるが、八重山諸島のプーリィという収穫祭にでるアカマタ、クロマタや石垣島川平のシツという祭りに出るマユンガナシなどの神がよく知られている。どちらの神も仮面や覆面で顔を隠し植物を全身につけた仮装の神である。こうした神秘的な神々にヒントを得て、異郷から訪れるマレビトの唱える神聖な言葉から、日本文学の発生を説明しようとしたのが、折口信夫である。

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)

「山王信仰(さんのうしんこう)とは、比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた神道の信仰である。日吉神社・日枝神社(ひよしじんじゃ、ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、大山咋神と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社ある。神仏習合期には山王(さんのう。山王権現、日吉山王など)と称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。猿を神使とする」とのこと。

<●●インターネット情報から●●>

(宮崎県椎葉村の観光情報サイト)の情報

<日本民俗学の創始者  柳田國男(やなぎたくにお)>

明治8年 兵庫県の福崎町に生まれ、東大卒業後、農商務省に入る。

明治42年 「後狩詞記」出版

明治43年 「遠野物語」出版後、民俗学研究所設立、著書も多数

昭和25年 日本民俗学会初代会長

昭和26年 文化勲章を受章

昭和37年 死去

明治42年柳田國男が「後狩詞記(のちのかりことばのき)」を著した。これが日本民俗学の最初の出版物であり、しかもその内容のほとんどが椎葉村の狩猟民俗に関して占められていた。

柳田國男が椎葉村を訪れたのは明治41713日から一週間。当時の中瀬すなお淳村長の屋敷に滞在しており、その屋敷は現在もそっくりそのまま残っている。庭先に昭和608月に建立した「日本民俗発祥の地」の碑が建てられている。

柳田國男が、この屋敷に滞在した数日間、中瀬すなお淳氏は、民俗学資料採集に積極的に協力。

また、柳田國男が椎葉を立つ時、中瀬氏は村境まで見送った。飯干峠の中腹で、昼食のにぎりめしを食べた時の一首

 「立ちかえり又みゝ川のみなかみに

          いほりせん日は夢ならでいつ」

と詠んだ歌を中瀬氏に贈っている。

中瀬氏は、後日同村大河内に所蔵している「狩の儀式」を記した巻物を復元し、柳田國男に送っているが、これが「後狩詞記」として世に出るきっかけとなったことはあまり知られていない。

<柳田國男監修「民俗学辞典」には平家村について次のように記している。>

少し奥深い山や辺僻の海岸など、やや風俗の異なった土地には平家の落人が隠れたという伝説が多い。有名なのは九州の五箇荘・椎葉村・米良・喜界島その他の薩南諸島、四国では祖谷山村、北は白山山麓の谷々や、信越の境の秋山郷から福島県の只見川の谷まで、全国を詳しくみれば6070ヶ所以上はあると思われる。そこへ一人一人の公達が分かれて行ったとしても、とても足りまいと思われる祖先を、どうして申し合わせたように信じていたかが問題である。少なくともそうした村々が高い誇りをもつ新移住者の家であったことは確かで、史書にそれを求めれば、高貴にしてしかもその末の明らかでない家は平家一門だけだった。だから、この部落もその子孫ではあるまいかというのがその主要な根拠だったらしい。

それに人里はなれて言語風俗にも多分に昔風があり、歌や踊りの手ぶりに都をしのばせる優雅なものがあればなおさらであって、つまりは山村の生活が前代を保存し、前代生活には類似したものの多かった事を知らない人たちが,この伝説を育てたのである。多くの長者譚や貴種流寓の伝承とも同じく、この伝説にも日本人の遠い都をあこがれる心が認められると思う。・・・

「乱世を立ち退ぞいた一門眷属とともに孤立経済をたてていた。」いわゆる隠れ里であり、その子孫によって開拓したというのであるが、これは平家一門のみならず戦乱を避けて入り込んだ他の人々も同様に理解されてよいであろう。


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by karasusan | 2015-11-17 17:44 | その他 | Comments(0)