「神仏習合」は、日本人の宗教生活のなかで神道と仏教が混じりあってきたことを意味している。(1)

『日本人の神はどこにいるのか』

島田裕巳  筑摩書房  2002/6/20

<復元の試み>

・日本は一神教の国ではない。それはさまざまな証拠から証明されるまぎれもない事実であるようにも見える。

 ただし、戦後の日本社会に、一神教をうち立てようとした人間がいないわけではなかった。その一人が、天理教の二代真柱、中山正善という人物であった。

 

<神仏習合と近代天皇制>

・日本を含め、仏教の信仰が定着している国では、神々への信仰とともに、仏への信仰が存在している。仏にはいくつかの種類があり、阿弥陀如来の如来からはじまって、観世音菩薩(観音)や地蔵菩薩の菩薩、不動明王や愛染明王の明王、帝釈天や毘沙門天の天などが、それぞれ崇拝の対象となっている。なにかの祈願を捧げる対象という点では、神も仏も同様の役割を果たしている。

 日本には、「神仏習合」という言葉がある。これは、日本人の宗教生活のなかで、神道と仏教が混じりあってきたことを意味している。たとえば「本地垂迹」という考え方があるが、これは、仏教の如来や菩薩が神道の神に姿を変えて現れることを意味する。この本地垂迹の考え方によって、日本土着の神は仏教的な権現という呼称をつけられてよばれるようになった。熊野権現や箱根権現などがその代表である。

 「神宮寺」という存在も、神仏習合の状況をあらわしている。神宮寺とは、神社の境内にある付属寺院のことである。神宮寺は、明治はじめの神仏分離令によって廃止されたが、かつては鹿島神宮寺、住吉神宮寺、伊勢神宮寺などがあった。

 東京の浅草には、有名な浅草寺があるが、そのすぐ横には、浅草神社が鎮座している。これも神社と寺院の共存の名残である。浅草神社は三社権現社とよばれていたが、その創建は、浅草寺の本尊である浅草観音のお告げによるものだった。

 このようにみてみるならば、日本はまさに多神教の国であるということになる。わたしたちは、信仰生活の中で、さまざまな神々と出会っている。神々のなかには、これまでふれてきた以外のものも数多く含まれている。

 一方で、日本においては、ただ一つの神への信仰は成立していないようにみえる。『古事記』や『日本書紀』に描かれた神話においても、一神教的な信仰を示す物語は含まれていない。

<創造された一神教>

・しかし、『稿本天理教教祖伝』に記された出来事は、それまで教団のなかで伝えられていた伝承とは異なるものだった。教団のなかには、みきにくだったのは、元の神・実の神ではなく、天の将軍や大神宮、あるいは天満宮であったという伝承が流布していた。なかには、みきには国常立命以下、この世を始めた十柱の神々がくだったと伝える伝承もあった。そうした伝承の方が、教団草創期からの古いものであったことは確かである。

 元の神について初めて言及したのは、正善の父、初代真柱の中山眞之亮であった。それは、眞之亮が編纂した『教祖様御伝』においてで、この本は、みきの死後20年が経った明治40年頃に成立したとされている。それまで、みきにくだった神が元の神であったという伝承はまったく存在しなかった。

・そこでは、みきにくだった神は、「我は天の将軍なり。元の神、実を言えば、の神なり。世界一列を助けるために、因縁の理と、しゅん刻限の到来によって、天降りたり」と述べたとされている。

 ここでは、古くからの伝承にあった天の将軍と、新しい元の神、実の神が混在している。

 古い史料をみると、みきにさまざまな神々がくだったことが記されている。しかし、啓示がただ一度だけのことであるとするならば、別のときに異なる神が天降るはずはない。

 また、元の神・実の神である天理教の主宰神、天理王命以外の神がみきにくだることもありえない。啓示や神の唯一性を強調するためには、天理王命以外の神がくだったという伝承は邪魔になる。そのために、教義の体系化をめざした『稿本天理教教祖伝』では、みきのさまざまな神がかりについての伝承はすべて切り捨てられてしまったのである。

・天理教の現在の教義では、みきにくだったという伝承もある国常立命以下十柱の神々は、個々別々に実在するものではなく、天理王命の働きを十種類に分けて示したものであるとされている。したがって、天理教においては、天理王命以外に神は存在しないことになる。

<柳田國男の執念>

・日本に一神教をうち立てようとしたのは、天理教の二代真柱、中山正善だけではなかった。正善と同時代に、異なるアプローチの仕方によって一神教の確立をめざしたのが、日本の民俗学の創始者、柳田國男であった。

・柳田は『祖先の話』の冒頭で、先祖という言葉の意味する範囲についてふれている。この先祖という言葉を、まず文字によって知った者たちは、家系の系譜上の筆頭に位置している一人の人間だけを先祖として考えようとする。

 ところが、この言葉を小さな頃から耳で聞いてきた一般の人々は、先祖というものを、自分たちの家で祀ることがなければ、ほかではどこでも祀る者のいない人の霊として考えているという。

・つまり柳田のいう先祖とは、分家して新たに一家をかまえた人物のことなのである。したがって、「ご先祖になる」という言い方がある。昔は、跡取りではない息子にたいして、周囲の人間たちは、精出して学問をし、御先祖になりなさいと励ましたという。

 この御先祖は、家を統合する象徴的な存在である。柳田は、日本において家や一門の結び付きが強いのは、子孫が共通の祖先を祀り、自分たちも、死後においてはその子孫から御先祖として祀られることを願うからだとのべている。

なぜ柳田が、これほど仏教の影響を排除しようとしたのか、不思議に思える部分もある。そこには、神主であった父親の影響があったとも考えられるが、それだけでは説明できないであろう。

<祖霊と氏神>

・柳田國男は、他界観の面でも、仏教の影響を否定しようとした。

 仏教では、死後、人ははるか彼方に存在する浄土に生まれ変わると考えられている。だが柳田は、『先祖の話』のなかで力をいれて説きたいと思うのは、日本人は、死後霊となってこの国土のうちにとどまるのであり、けっして遠方へ行ってしまわないという点であると述べている。こうした信仰は、世の始まりから今日まで、根強く持続しているというのだ。

そして柳田は、祖先の霊は、自分が生活していた家からは離れずに、山の神になり、田の神になるのだという説を展開していく。春に、山の神は里にくだって田の神となり、また秋の収穫が終わると、田の神は田からあがって、山にかえり、山の神となる。そうした田の神も山の神も、結局のところは、子孫によって祀られた祖先の霊なのではないかというのだ。

 こうして、柳田の議論においては、先祖の霊と田の神、山の神の同一性が説かれたわけだが、そこで一つ問題になるのが、村々で祀られる氏神という存在である。

 氏神は、本来、氏の神であり、それは一族の先祖を祀ったものであるはずである。ところが、家には先祖を祭る先祖棚があって、先祖祭を行っており、氏神の社でもそれとは別に祭が行なわれているかっこうになっている。また氏神については、一つの氏がそれを祀っているのではなく、名字を異にした数個の氏が祀っている。

 

・柳田は、こうした疑問にたいして、一門の神が合同したのは、じつは祭が合同したせいではないかという議論を展開していく。先祖の祭が行なわれるのは、同じ日であり、同じ村という場所である。そこから、神は一つであるという観念がはぐくまれていくことになったという。柳田は、もう一つ、祭を盛大にしたいという動機もあったのではないかと推測している。

・たとえば、『氏神と氏子』では、氏神信仰の形態を三つに区別している。一つが、村で祀られる「村氏神」であり、その地域に住む人間はすべてその氏子として祭に奉仕することになる。柳田は、村社とよばれるものの半分は氏神とよばれ、またその残りの半分以上も、氏神とよんでさしつかえないと述べている。さらに、全国に2600ある郷社や1400ある府県社以上の大社についても、そのほとんどは氏神であったと述べている。

 

・二つ目が、「屋敷氏神」であり、これは、屋敷の一隅に祀られている祠のことである。柳田は、こうした屋敷氏神を氏神とよんでいる地域は広いと述べている。屋敷氏神は、まさに一つの家、一つの氏で祀られた神であるということになる。

しかし柳田は、村氏神にしても屋敷氏神にしても、それは古い時代にはなかったものととらえている。それは、氏族組織が変化して、力強い大きな結合を必要としなくなった結果であるという。柳田は、特定の家、特定の一門に属する人間たちが合同して祭祀を行う「一門氏神」を、もっとも古い形態であるととらえている。村氏神も屋敷氏神も、この一門氏神が分化したものだというのである。

一門が共通して祀る氏神とは何か。それは、一門に共通する御先祖であるということになる。柳田は結局、すべての信仰を御先祖様の霊へと還元していく。田の神や山の神だけではなく、氏神もまた御先祖の霊であり、すべては一つのものなのである。

・こうしてみてくると、柳田の議論は「祖霊還元論」、あるいは「祖霊一元論」として考えることができる。柳田は、日本人の信仰の基盤に御先祖への信仰、先祖祭祀があったと考え、ほかの信仰形態についても、その発展としてとらえようとした。すべての神が祖霊の発展形態であるとすれば、神は一つであるということになる。

なぜ、これほどまでに柳田が御先祖への信仰にこだわったのかは、かれの仏教ぎらいとともに大きな謎である。あるいは、仏教の固有信仰への影響を完全に否定しようとした結果、御先祖への信仰を強調せざるをえなかったのかもしれない。日本人の信仰が仏教から大きな影響をうけていることは否定できない事実である。

・柳田が、一神教と多神教という問題にたいして、どのような関心をもっていたかはわからない。はたして、そうした問題に興味をもっていたかどうかもわからない。しかし、かれの試みは、とかく体系性をもたないとされている日本人の固有信仰を、体系性をもった信仰として描きだそうとすることにあった。そこからかれは、祖霊一元論、つまりは日本的な一神教の方向へ向かっていった。その一神教は、民俗的な事実にもとづいている分、中山正善のつくり上げようとした一神教よりも具体性をもっていた。そして、神の多様な現われをみとめる点で、一神教=多神教モデルに近いものだったのである。

『安倍晴明 陰陽師 超能力者』

(志村 有弘、豊嶋 泰国)(勉誠出版) 2001/6

『中山みき』不世出の女性超能力者  (豊嶋 泰国)

<すべてを見通す>

・天理教の教祖として知られる中山みきは、何でも「見抜き見通し」といわれたほど、並外れた超能力者であった。

・居ながらにして、遠くの出来事を第三者に見せることもできた。みきが台の上にいつもじっと坐っているので、弟子の井筒梅次郎が、「さぞ退屈でございましょう」と声をかけた。すると、みきは「ここにちょっと顔をつけてごらん」といって、自分の片袖を差し出した。そこで、梅次郎が、その袖に顔をつけてみると、場面は変わって牡丹の花が咲き誇っている光景が見えたという。梅次郎は、みきが何でも自由自在に見ることができる<神様>であることを確信したのである。

<たちどころに病を治す>「よろず病たすけの神様」というみきの存在。

<異常な怪力>「教祖(みき)の力は人間業ではなかった」

<予知能力>

・それから、「見えてから説いてかかるは世間並み。見えん先から説いておくぞや」と『おふでさき』で説いているように、みきは計り知れない予知・予言能力が備わっていた。例えば、幕藩体制や封建社会の崩壊と明治維新、電車や飛行機などの交通手段の進化、電信・電話や今日のコンピュータ・ネットワークによる世界のグローバル化のようなことまで予言していた。

<天理教祖>

・みきは寛政十年(1798年)に奈良県天理市に前川家の長女として生まれた。天保九年(1838年)に長男秀司が病気に罹り、祈祷を依頼した修験者の加持台(巫女役)を務めた時に激しい神懸りとなった。すなわち、天理教の開祖である。

・みきに神懸ったのは世界や人類を創造した「元の神・実の神」で、世界人類の真の救済のために天降り、みきを「神の社」としてもらい受けることを明らかにした。だが、長い間、みきを「神」と認める者はいなかった。それどころか、狐狸に憑かれた老女か気狂いとして見なされた。主な理由は、困っている人たちに家財を徹底的に施し、極貧生活を送るようになったためである。

・だが、安産守護や病気治しで霊験を現すようになってから、噂を聞いて信者が集まりだし、天理教の基礎が築かれた。みきが死去したのは明治二十年(1887年)二月十八日、九十歳であったが、天理教では現身を隠しただけで、魂は生き通しで世界の救済のために日々尽力していると説いている。現代でも熱心な信者の前に、赤衣を着たみきが現れて救ってくれたーなどの霊妙な話が少なからずある。

『面白いほどよくわかる  日本の神さま』

古事記を彩る神々の物語を楽しむ

田中治郎  山折哲雄    日本文芸社  2007/11

<『神世七代の第一神   国之常立神(クニノトコタチノカミ)』>

<大地を永遠に屹立させる神>

<宇宙の根源神として>

・『古事記』では別天神の次に六番目としての登場した神となっているが、『日本書紀』ではクニノトコタチノカミ(国之常立神)こそが最初に現れた神と記されている。

『日本書紀』の「一書」(第四)では、クニノトコタチノカミとは別に「高天原においでになる神の名を天御中主命」とあるから、クニノトコタチノカミは高天原ではない虚空に存在し、大地形成を指導していたというニュアンスが感じられる。

・アメノミナカヌシは、「高天原に成りし神」(『古事記』)だから、高天原成立後その地に誕生した神であり、もしかするとクニノトコタチノカミはそれ以前から存在する始原神なのかもしれない。

「国」、すなわち大地は私たちの存在基盤だから、クニノトコタチノカミはアメノミナカヌシにも劣らない根源的な神さまである。

・鎌倉時代以来、神道を理論化し、一つの体系的な信仰形態を樹立しようとする動きが生じたが、その中の吉田神道や伊勢神道では、クニノトコタチノカミを宇宙の根源神としている。

『地球を守る「宇宙連合」とは何か』

宇宙の正義と新時代へのシグナル

大川隆法   幸福の科学出版    2011/7

<今、明かされる「日本神道の秘密」>

<天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、国常立神(くにとこたちのかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)の「正体」とは>

・実は日本神道の中心神には「天御中主系」と「国常立系」とがあるんです。『古事記』の系統はだいたい天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を中心神として考えていますね。そして、『日本書紀』系統は、国常立神(くにとこたちのかみ)を日本神というか、この日本の教えをつくった始原の神、最初の神として見ているのです。『古事記』と『日本書紀』は、書いている人が同じ時代の人であり、そんなに変わらない時期に成立した正史というか、国の歴史書です。つまり「最初の神ではないか」と思われている神が二人、正史に現れているわけです。

・そして、片方の天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を中心にしたところでは国常立神(くにとこたちのかみ)の評価が低めになっています。一方、国常立神系では天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)のことをそれほど偉い人のように思っていないところがありますね。

『姫神の本』  聖なるヒメと巫女の霊力

  学研マーケティング   2007/8

<中山みき  天理教教祖>

<世界創造神の憑依により「陽気ぐらし」の理想を説く>

・天保9年(1838)、中山みきは長男・秀司の足の痛みを治すために、修験者の中野市兵衛を招いた。だが、加持台役が不在だったため、みずから加持台となって御幣を手にし、寄加持をしているうちに、神憑りとなった。「我は天の将軍である。元の神・実の神である。この屋敷(中山家)に因縁あり。このたび世界一列をたすけるために天降った。みきを神の社に貰い受けたい」

ふだんのみきとはまったく異なる、神々しい威厳に満ちた声であったという。

・また、みきに入り込んだ神は、世界の創造神で人類を守護しているとされ、親神(天理王命(てんりおうのみこと))と称される。

以後、みきは家財などを貧窮者にどんどんほどこしたため、中山家は世間的には没落の一途をたどり、資産はほとんど底をついた、みきは狐に憑かれておかしくなったとみられていたほどである。しかし61歳の時に、「帯屋許し」と呼ばれる、お産に関する呪術的な安産の助けを行ったのを手はじめに、安産と病気治しの生き神として評判になった。

・慶応3年(1867)、側近らによって、神祇管領の吉田家から布教の免許を受けたが、明治維新後は正式に認可されるまで、明治政府により邪教として扱われ、前後18回も検挙されるなど、弾圧をこうむった。みきは高齢であったにもかかわらず、警察で虐待や拷問を受けたが、彼らを非難することは一度もなかったという。

・晩年は、親神の啓示とされる『みかぐらうた』『おふでさき』などを著し、人間世界の創造を説いた神話『こふき』(泥海古記)をまとめ、中山家の土地の一点を、親神が鎮まる「ぢば」(世界人類の発祥の地とされる)と定め、そこに人類救済のシンボルである「かんろだい」の建設を計画した。

<出口なお  大本教開祖>

<世界の立替え立直しを啓示した膨大な「お筆先」を残す>

・出口なおが、明治25年(1892)旧正月5日、京都府綾部の自宅で突然、激しい帰神状態となって発した神示(「初発の筆先」)のはじめである。艮の金神(国常立尊)がなおに神憑り、世界の「立替え立直し」と、理想世界の実現を啓示した宣言というべきものであり、これによって大本教がはじまった。

 この年の元旦の夜から前兆はあった。霊夢が毎夜続いていた。初発の神示が降りてからは、昼夜を分かたず帰神状態となり、13日間、食事をとることもできなかった。

・明治26年、綾部で原因不明の火事が相次いだ。おりもおり、なおは神憑って、「今のうちに改心いたさねば、どこに飛び火がいたそうも知れんぞよ」と大声で叫んでいた。そのため、放火の疑いをかけられ、警察署に留置されて、40日も座敷牢に閉じ込められてしまったのである。

<大本教が国家に弾圧されたのは、なおの昇天後である>

・すると艮の金神は、「なおよ、筆で書かすから、筆をとれ」と伝えた。なおは困惑した。文字を書けなかったからだ。しかし艮の金神は、「お前が書くのではない。神が書かすのである」と言う。なおはなにかを書きたい衝動にかられた。そして、座敷牢の床に落ちていた古釘を手にすると、その柱に文字を書きつけていたのである。

・そのうちに放火犯が逮捕され、疑いが晴れたなおは、出牢後、堰を切ったようにお筆先をはじめるのである。以後、神の言葉が原則として文字によって伝達されることになり、半紙で5万枚以上といわれる膨大なお筆先は、後年、娘婿の出口王仁三郎によってまとめられ、『大本神論』として発表された。

『王仁三郎の霊界物語大預言』

富士山大爆発とミロク神人種誕生の神ドラマ

   海野光彦  徳間書店   1995/11

<ミロク神人種だけが「黄金のそりはし」を渡る!>

・国祖、国常立命は、太古の昔、地球主宰神の位についていたが、悪魔の謀議によって艮(とどめ)の地である日本列島に押し込められた・・・。では元の地球主宰神・国常立命の本拠地はどこにあったのか。実はそれを解くヒントが『霊界物語』冒頭にのっている。次に紹介する黄金のそり橋だ。

・黄金のそり橋は、太古の昔、亜熱帯の中央アジア・ゴビ海に浮かぶ白島にかかっていた。造り上げたのは、太古の地球主宰神サナート=クメラだ。サナート=クメラは、国常立命の別名に違いない。

 黄金のそり橋のかかる白島には、地球主宰神の黄金宮殿が澄みわたった青空にひときわ美しく輝いていた。

・そうしてこの橋を渡ると直に自分は、エルサレムの聖地に着いた。この聖地には黄金と瑠璃(めのう)とかいう宝の珠玉をもって雄大な、とても形容できない大神の宮殿が造られている。(霊界物語第1巻より)

・この神都の現界への移写が、かってゴビ海に浮かぶ『白島』に現れていた。地球主宰神・国常立命が納める黄金の神都から数多くの『ミロク神人種』が世界各地に旅立っていった。

・日月神示やヒマラヤのミロク神人種が示すように原水爆の高熱やマイナス数十度の酷寒でも耐える超人体を保有する神人が日本を始め、世界各地に渡り、万物調和の理想郷すなわち『ミロクの世』を築いていたのだ。それが世界各地で潜伏する悪神の決起で灰と帰し、世界が泥海になったことが『霊界物語』に書かれている。

・しかし、王仁三郎が死をかけて、大日本帝国政府と戦い、厳しい特高警察の目をかいくぐって口述筆記した『霊界物語』は、世紀末、各種の予言の中でひときわ異彩を放っている。

・核の炎、核の冬、恐るべき極反転に伴う大地殻変動に負けないミロク神人種が21世紀に日本を中心に誕生することが『霊界物語』には秘められていたのだ。

・彼らだけが鶴仙に乗り、輝く肉体を霊化させ、『黄金のそり橋』を渡り、国常立命の治める神界の大都に結集することができる。

<『霊界物語』はテレポートと魂の旅行で作られた>

・それにしても『霊界物語』はあらゆる点で人間の常識を超えている。

最初に脅かされることは、口述筆記の驚異はスピードである。一巻をわずか3日で書き上げている。81巻、83冊からなる『霊界物語』に集大成していくが、最初から最後まで口述のスピードは変わらなかった。

原稿用紙にして約10万枚でひとまず完成するが、王仁三郎は全120巻を予定していた。だから3分の2で彼は口述を終わったことになる。しかも、筆記中に王仁三郎は一冊の参考書も見なかった。

・ゴロリと横になって少しイビキをかいたかと思うと、王仁三郎の口から真珠のきらめきのごとき不思議な物語が紡ぎ出される。

50世紀まで見通す人類最大の「予言暗号書」

<王仁三郎は50世紀の未来を見通した>

・「24世紀の今日は、天国浄土の完成時代だ。中空をかける飛行機、飛行船はすでに廃物となり、天の羽衣という精巧無比の機械が発明され、汽車は宙を走って、1時間に5百マイルという速力だ。蓮華の花は所狭きまで、咲き乱れ、何ともかとも知れない黄金世界が現出しているのだ」(『霊界物語』第14巻8章より)

・王仁三郎はミロク浄土の完成を目指していたが、それは24世紀、今から約3百年経なければ、本当のユートピアは生まれないと予言している。ミロク超科学文明が生まれると、黄金のUFOが大空を飛び交い、世界中に美しい花が咲き乱れる。これは彼の予言の中で最も楽観的なものである。

・さらに王仁三郎は、はるか50世紀頃の人類の様子をも透視している。「何、神界ばかりか、現実もこの通りですよ。一番図抜けて大男といわれるのが、3尺(90センチ)内外、1尺8寸(54センチ)あれば、一人前の人間だ・・・。少しも手足を使わないものだから、身体はおいおい虚弱となってしまい、もはや50世紀の今日では、こんな弱々しい人間になってしまった・・・・。それと反対に6尺(1.8メートル)以上の体を持ち、現幽神界において神の生宮として活動しているミロク人種もありますよ」(『霊界物語』第3巻20章より)

・つまり50世紀の人類は、ほとんど小人で頭脳だけの存在になっている。脳をある種の液体に入れて、スーパーコンピューターをつなぎ、あらゆる指令がコンピューターから出される。

 一方、普通以上の体を自由自在にテレポートさせ、現界と霊界を行き来するミロク人種も少数存在する。現代から見れば、完全なSFの世界である。

・50世紀の交通機関は奇妙なことに黄金の翼を人間に直接取り付けて、超高速で飛ぶようになっている。

・すなわち、松彦は、「みな様、しばらくお待ちくださいませ。空中交通機を上げませう」と又もや指先にて空中に、何事か記す其の刹那、金色燦然たる鳥の翼のごときもの四組、何処ともなくこの場に降り来たりぬ。「サァー、これを御着けなされ」と言ふより早く自然的に四人の肩の辺りに、金色の翼はピタリとくひつきたり、四人は一度に、「アア、これは立派だなァ」と羽ばたきを試むるや、身はますます高く空中に飛ぶ揚がり一瀉千里の勢をもって電波よりも早く、西の空を目がけて進み行く。    (『霊界物語』第15巻21章)

・このように王仁三郎の世界はまことに幅が広い。超古代から50世紀のはるかな未来まで見通した彼のような予言者は世界中どこにも存在しない。だからある面では、シャカ、キリストさえも超えた予言を述べていたことになる。

『地球を守る『宇宙連合』とは何か』

宇宙の正義と新時代へのシグナル

大川隆法  幸福の科学出版   2011/7

<今、明かされる「日本神道の秘密」>

<天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、国常立神(くにとこたちのかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)の「正体」とは>

実は日本神道の中心神には「天御中主系」と「国常立系」とがあるんです。『古事記』の系統はだいたい天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を中心神として考えていますね。そして、『日本書紀』系統は、国常立神(くにとこたちのかみ)を日本神というか、この日本の教えをつくった始原の神、最初の神として見ているのです。『古事記』と『日本書紀』は、書いている人が同じ時代の人であり、そんなに変わらない時期に成立した正史というか、国の歴史書です。つまり「最初の神ではないか」と思われている神が二人、正史に現れているわけです。

・そして、片方の天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を中心にしたところでは国常立神(くにとこたちのかみ)の評価が低めになっています。一方、国常立神(くにとこたちのかみ)系では天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)のことをそれほど偉い人のように思っていないところがありますね。

『日本の神様がわかる本』

あの神様の性格・あの神社のご利益が一目瞭然

戸部民夫   PHP研究所

<「国之常立神(くにのとこたちのかみ)」>

代表的神社;玉置神社、西金砂神社、大鳥神社、日枝神社、熊野速玉大社、御嶽神社

<国土におけるあらゆる営為を守る>

・国常立尊(くにのとこたちのかみ)は、天地創造神話に登場する根源神である。

・ごく身近な感覚として考えれば、この神は普段、我々が生活する大地に宿っていて、国土の上でのあらゆる営為にその霊力が及ぶということになる。

<神道学説では日本の神的世界の中心>

・吉田神道(創始者・吉田兼倶))では、宇宙の太元尊神(中国の老子の大元説に基づく神で、天地創成に先立ち、陰陽を超え、初めも終わりもなく、宇宙のすべてに顕現するとされている)として国常立尊(くにのとこたちのかみ)を祀り、八百万(やおよろず)の神の中心に置く。

 

・また、大本教では「艮の金神」と呼ばれる根本神である国祖の神々を国常立尊(くにのとこたちのかみ)としている。

国祖の神は、平常は隠れているが、時節の到来とともに出現し、世にはびこる悪を退治して、理想の神政をもたらすと考えられている。

『神道入門』  知識ゼロからの

武光誠    幻冬舎    2006/8

<乱暴を働いたスサノヲの追放によりふたつに分かれた神々の系譜>

<天津神と国津神>

・数多く存在する日本の神々は、大きく「天津神」と「国津神」の二大系統に分けられる。平安時代に編纂された『延喜式』では、天津神は天上の雲の上におり、国津神は地上の山中にあって雲や霧の中に鎮まる神々とされる。

・『古事記』や『日本書紀』の神話によると、この二大系統の起源は、ヤマタノヲロチ退治で有名な神スサノヲにあるという。スサノヲは、誕生して間もなく親神イザナキと姉のアマテラスに反逆し、高天原を混乱に陥れたために、地上に追放された。これによりスサノヲが国津神の性格を帯びたため、神がふたつに大別されたとされる。天津神は高天原系の神々、国津神はスサノヲの子孫の系譜といえるのだ。

<高天原が加わることで、三層構造となった日本人の世界観>

・世界は、天津神の支配する「高天原」、その下位に人間と国津神が住む「葦原中国」、さらにその地下にある「黄泉国」という三層構造に変化した。黄泉国は、イザナミやその息子のスサノヲが支配する国である。罪・穢れが流れ棄てられる場所とされ、「根の国底の国」(根の堅州国)とも呼ばれる。

・さらに葦原中国に対する異界・他界の世界観もどんどん広がっていった。ほかにも、海神の住む「海郷」、海の彼方にある死者の世界「常世国」など、神話には多くの異界が描かれていくのである。

<真言密教と習合することによって全国に広まった秦氏の信仰>

全国の至るところで祀られ、「お稲荷さん」として親しまれてきた稲荷信仰。この信仰をひらいたのは、応神天皇の頃に渡来した有力豪族の秦氏である。京都の伏見稲荷大社に起源を発し、現在でも稲荷系の社の総本社はこの伏見稲荷大社となっている。

 その祭神は「宇迦之御魂神」であり、保食神などのいくつかの別名を持つが、五穀を中心とする食物、農耕の神である。

・この信仰が広く世間に知られるようになったのは、中世に東寺の鎮守神にもなるなど真言宗と習合し、現世利益とも結びついたからである。江戸時代には流行神のひとつとなって、商業の神として民間でも広く祀られるようになり、今では全国に約19800社を誇るに至る。

 この稲荷神の眷属(神の使い)は狐であり、こちらの方が有名な存在だ。

<神託で朝廷に貢献し、源氏の氏神として全国へと広まった宇佐の神>

・全国どこへ出かけても、「八幡様」と呼ばれる神社を目にする。それもそのはずで、「八幡神社」は、日本全国に約14800社も存在するのだ。その総本社が大分にある宇佐八幡宮である。「八幡」については平安初期に「ヤハタ」から「ハチマン」と音読するようになったといわれる。語源は多数の幡を立てて応神天皇の誕生を祝ったこととする説が有力だ。祭神は応神天皇とともに、神功皇后、ヒメノオホカミが祀られている。

・貞観二(860)年に京都の石清水八幡宮に勧請され、平安後期になると弓矢、戦勝の神として武神としても信仰されるようになる。のちには源氏が八幡神を氏神とし、源頼義が石清水八幡宮を鶴岡八幡宮に勧請したり、頼義の子源義家が、石清水八幡宮で元服したりするなど武神としての性格を強めていった。

 やがて源氏が鎌倉幕府を開くことで、全国の武士が八幡神を祀り、また御家人が赴任した地域に八幡宮を勧請したため全国に八幡信仰が広まっていった。

<八幡神(応神天皇)>

・武士が起こした神社の多くは八幡神社である。全国八幡神社の総本宮・宇佐神宮(大分県)の宇佐神は、もとは海の神だった。六世紀頃には、巫女たちが道教の呪術医療で信者を集めた。同神宮の縁起によれば、571年、現在の本殿のある場所に神霊が現われ「我は誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と大神比義に告げたことから、八幡神は、応神天皇とされるようになる。奈良時代に、大仏鋳造を機に東大寺のそばに手向山八幡宮が建てられ、八幡信仰は仏教と融合した託宣神として中央に進出した。

<国常立神(くにのとこたちのかみ)>

『日本書紀』で重視される、永遠の国土を示す神

・『古事記』では六番目に登場し、国之常立神と記される。『日本書紀』では天地開闢の始原神として登場し、国常立尊と記される。宇宙が誕生し、国土がまだ混沌状態にあるときに登場し、泥土を凝集して生命力(心霊)が宿る大地を形成したとされる。国之常立神の名前は、「国」の「床」(=土台)を「立てる」(=出現する)神という意味である。「常立」を永遠に立ち続ける意とする異説もある。国土の永遠性を予祝した神名である。

『八幡神の謎』

(大里長城 著)(まんぼう社)2003/11

<謎の多い八幡神>

・「全国で約11万社ある神社の中で、八幡神社は、4万6百余社と最も多く、その総本宮は、大分県宇佐市にある宇佐神宮である。『鍛冶の神』『予言の神』『託宣の神』『武の神』『護国の神』とも言われている。八幡神は謎の多い神であり、先達の研究でも明快な結論は得られていない」。

・「<神話における託宣>神功皇后は神懸りになり神霊を招きよせたのである。建内宿禰は沙庭(さにわ)(神降ろしを行なう場所)に居て、神が依り付いた神功から神託を承ったのである」

「<大神比義(おおがひぎ)の登場>

・現在の宇佐神宮の祭神を持ち込み、その後の八幡信仰の隆盛をもたらした大神比義は、出自も歳もはっきりせず、尊神の分神とか武内宿禰の再来とか神格化されている。歳も5百歳、8百歳など神格化されている」。

・「<鎮守の森> 村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日 ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ 朝から聞こえる笛太鼓・・・・・・・・・・・・尋常小学校唱歌(村祭)だが、この鎮守の神で最も多いのが『八幡さま』である。なぜこの鎮守の神が地域に流れ込んだのだろうか」。

・「天台宗、真言宗は在地神社と組んで、八幡神を鎮守とした。最澄、空海は延暦22年(803)香春神社で宇佐神宮に詣で、入唐の平安を祈っている。八幡神が東大寺鎮守となり、自ら八幡大菩薩と名乗ったので、天台・真言両宗の開祖である最澄、空海は在地神社と組んでいくという新しい方向をとった。東寺八幡宮、大安寺八幡宮、薬師寺八幡宮、勧修寺八幡宮などがそうである。それで、八幡信仰は全国的に広まった」。


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by karasusan | 2016-01-21 14:04 | その他 | Comments(0)