鋼鉄は1対20、石炭は1対10、石油1対500、電力は1対6、アルミ1対6、工業労働力1対5、飛行機生産力1対5、自動車生産力1対450(1)

『昭和陸軍謀略秘史』

岩畔豪雄   日本経済新聞出版社   2015/6/25

<整備局統制化へ>

・作戦資材整備会議の「整備」を取って整備局、とこうしたわけです。だから、各現状の局課があるわけですね、兵器局であるとかあるいは経理局であるとかいろいろあるわけです。そういうところで、なにをどういうふうに整備するかということは整備局の統制課というのが全部ディクテーレンしたわけです。

 それから、動員課というのは国家総動員をやった、その二つの業務があったわけです。

 これは大したものですよ。いまはこういうものもあるのかも知れないが、電子計算機ぐらい持って行けばいいことなんでしょうが、大変な仕事ですよ。つまり、何をどういうふうにやるかということは常識的に考えてもいろいろな品目があるわけです。大体軍需品の作戦資材の品目が、商品名が軍隊で、いくらぐらいあったと思われますか。大体5万種でした。いまだったらおそらく100万種になっているんじゃないですか、なんとかかんとか、ローソクまで入れるとね。その5万種を全部挙げたわけです。

 そして、それを軍隊にいくつぐらいずつやったらいいかということを決めるわけですよ。単価がいくら、したがって予算がいくらいるということを出すわけです。ところが全部やるわけにはいかないから、平時はこれくらい、戦時になったらこいつは臨時に調達するのだ。臨時調達してもない物は製造するのだ、戦時の製造計画、徴発計画、平時の整備計画、これをみんなやるわけです。

<機密費の舞台裏>

・「君、もう少し金を持ってこい」と言うわけです。それは、いまの日本の今日の状態では絶対出来ないよ。当時の状態では、金が出来るというのは陸軍と満鉄です。それ以外にはないのです。みんな機密費というものを持っているのだから。いま内閣などは2億ぐらいしか持っていないというのです。内調などを含めてもね。2億ぐらいではなにも出来ないですね。いまだったら200億ぐらいのものを持っていないとね。当時の陸軍は3000万円持っておりましたからね。3000万円を1000倍とすると、300億なければいけない。それくらいのものを持っていたのですから。

 ぼくがインド工作というのを初めてやったが、あの時の機密費が1年に500万円ですよ。500倍として25億か、それだけのものを一大佐から少将に任されていたのだからね。

<戦前の金の作り方>

・自民党のやつらは、選挙でも余計金が要るものだから大きなやつを時々やるものだから「黒い霧」だと言って騒がれる。大きなところは大将がやるけれども、大将がやらないと自分がやるものだからこんなことになってしまうのでね。この政治をやるためになんとか金を少なくすることも必要だし、あれもしなければならない。

 昔は陸軍とかあるいは満鉄でしたね。右翼などのたかったのは、陸軍がやったわけではなくて、金を貰いに来たからやったわけです。陸軍のほうは金を貰いに来ると、右翼には見境なくやる傾向がありましたからね、それは非常に悪かったことですが、そんなことでした。

 金は、いまはやはり「黒い霧」ではないが、なにか仕事をしてやってその代償として貰う、そこに「黒い霧」が起こるというのが今日の現象ですが、昔はそうじゃないので、大きな会社が、儲かったからと言ってポンと出すわけなんです。それをみんなに分けるわけです。

・それで、とうとうあれが死ぬ前にぼくに、「軍事課長、わしも今度非常に儲けたから1000万円寄贈をしたいから、陸軍と海軍の人の子供が転勤になると学校にはいれぬから、中学校と女学校を一つ作ってもらえんか」ということで、それが山水という女学校と中学校の二つを1000万円で作った。それが今日桐朋という学校があるでしょう。

<政治工作>

・政治工作はあまりやらなかった。陸軍は下手ですよ。実は、今日、ぼくは大東亜戦争批判についてはどうしても書きたいと思うのは陸軍と海軍の喧嘩だ。海軍は陸軍に比べて非常に頭がいいね。陸軍は宮内省とか首脳部にはなんにも手が打てない。海軍は高木惣吉という人が調査課長で、これは随分やっておるね。

・つねに海軍はそういう首脳部に付いている。陸軍はただ力でやっているだけでしょう。226なんかにしても、天皇陛下は、226の連中は逆臣だと言っているのに、「まだ226の連中は、天皇陛下のお志はわれわれにある」というようなそういう誤解をしているくらいバカですよ。そういうところが非常にあるのですね。だからそういう点から見ても海軍のほうは非常にスマートであったと私は思っています。

 思想的にも、陸軍はぐっと力で押していく。満州で事があるとそれを押す。海軍はやらんものだから、結局高木なんという人が中心に、哲学を持ち出す。高山岩男さんなんというのは、高木君が哲学をやっているものだから、海軍はそういうところも利用しており、陸軍はバカだったということを痛切に感じますね。

・―― 昭和8年頃、3000万なりの金は、そういうものがやはり政治工作などに使われたことは間違いないわけですね。

(岩畔)それは政治工作にはあまり使われていないですよ。おそらく機密費を政治的に使ったというのは――細かいことで議会の議員を操縦するのに相当使っておったでしょうね。しかし、あんまり大きな民間の動きに対して使ったということはありません。

<陸軍中野学校設立の背景>

中野学校というのはこれはぼくが作ったのですからね。

・第2部はみんな情報をやるわけですね。昔は課の前に班があったように思うのです。たとえば、第2部に第4班というのがありまして、第8班というものまであった。その4班というのが第2部長直轄の仕事をやったわけです。参謀本部の宣伝業務というのと、全体情報の判断をやり、5班というのがロシア関係の情報、6班が英米、7班が英国以外のヨーロッパ諸国、8班が支那班、こういうようなものがあったわけです。それを課に集合したわけです。

<謀略資材研究所>

・それをやると同時に、謀略資材研究所を作ったわけです。これが大事なものなんです。それは、しまいには、ぼくが軍事課長の時には第11登呂研究所と言っておりました。稲田登呂、あすこの名前を付けたのです。

・その中にはパスポートから偽造紙幣から、たとえば、こんなような形[石炭の塊]の爆弾だとか、そういうものを石炭の中に入れておくとバーンと爆発するようなものとか、いろいろあるわけです。

<終戦後、科学振興の研究所を立ち上げ>

・―― 東京に着いてから終戦のあれに――。

(岩畔)終戦は2週間か3週間に終わっておるでしょう。それで、今更軍務局長を変える必要もないというので、そこで、軍事調査部長というのを2、3ケ月やりました。9月に帰って来て、11月頃までそれをやりました。山下奉文なんかも一時やっておりましたが。

―― そうすると、占領軍が来て、そういう段階での処理などもいろいろおやりになったわけですか。

(岩畔)ほとんどやりませんでした。その時、――これはぼくが間違っておるかも知れませんが――日本が負けたのにはいろいろある、兵隊の中には必ずしも負けない人もおったろう、ほんとうに負けたのは、約1500人に及ぶ科学者と技術者と産業人、アメリカのそれらのものに負けたんだろう、だからこれは科学振興ということを徹底的にやらなければいけないということで、渋沢敬三なんかに言って、どうしても大きな研究所を作らなければいけないということを、もうその頃はやっておりました。

 それで陸軍の研究所を一つ借りましたよ。国分寺に第8研究所を借りたのです。そして、これは研究所をアパートにしようということで、金のない人で引き揚げて来た人はみんな研究所を借りたんです。

『異能の軍人の証言録   等松春夫』

<異能の軍人>

・岩畔豪雄は、昭和戦前期に軍事官僚として陸軍省と参謀本部(いわゆる省部)の要職を歴任、満州国の経営に参画し、さらには謀略工作も担当した。アジア・太平洋戦争勃発直前には日米交渉に関与し、そして開戦後はマラヤ作戦、ビルマ作戦および対インド政治工作に従事する。この他にも中野学校、機甲本部、大東亜共栄圏、戦陣訓、登呂研究所、偽造紙幣工作、など岩畔が関与した事案は枚挙にいとまなく、「異能の軍人」の面目躍如であった。

 1937年の日中戦争開始時に中佐、41年の日米開戦時に大佐、45年の敗戦時に少将であった岩畔は、鈴木貞一、佐藤賢了、田中真一ら国策立案に関わった世代と服部卓四郎、西浦進、堀場一雄ら軍政と軍令の実務を担当した世代たちの間にあって、両者をつなぐ位置にあった。

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)から

<岩畔豪雄>

岩畔豪雄(いわくろ ひでお、18971010 - 19701122日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍少将。後方勤務要員養成所(陸軍中野学校)設立者、京都産業大学設立者の一人で元理事。

(日米開戦回避に奔走)

1941年(昭和16年)3月、緊迫する日米関係の調整のため井川忠雄の要請で、日本大使館付武官補佐官として渡米、日本の興亡を決定する日米交渉を行う。連邦捜査局(FBI)は、秘密裏に岩畔らの行動を監視したといわれている。駐米大使・野村吉三郎らと日米開戦回避のための日米首脳会談などを柱とする日米諒解案の策定を行う。この諒解案には岩畔の思想がかなり盛られていた。しかし非公式だった諒解案が表に出ると外務大臣・松岡洋右からこれを反古にされ(諒解案が松岡が外交で留守の間に日本に送られてきたのも、松岡がヘソを曲げた理由の一つとされる。送付は松岡の留守を狙ったという岩畔の謀略説があるが、当時の慌ただしい国際情勢の中、たまたま時期が重なっただけで、岩畔、野村(大使)、井川らはコーデル・ハルも認めるほど誠実かつ真剣に日米和平を追求しており、スパイ活動などとは一線を画している。むしろ、アメリカにいた岩畔、野村らの方が、訪独した松岡ら外務省が展開する枢軸外交一辺倒の姿勢に驚かされたほどであった。「謀略説」は外務省の当時の素行を正当化するために戦後流布された風説に過ぎないという見方が有力である。岩畔はその後の野村と国務長官・コーデル・ハルとの会談にも同席し交渉を続けたが、6月に独ソが開戦してしまい米国にとって諒解案は急ぐ必要の無いものとなった。岩畔は帰国し陸海軍省、参謀本部、軍令部はいうにおよばず、宮内省へも足をのばし折衝を続けた。新庄健吉大佐からの報告書を基に、「アメリカの物的戦力表は、以下の日米の比率で明らかでありましょう。鋼鉄は120、石炭は110、石油1500、電力は16、アルミ16、工業労働力15、飛行機生産力15、自動車生産力1450であります」と数字をあげ「もし、日米が戦い、長期化したら勝算は全くありません」と付け加えた。だが大勢は参謀本部での会合でも「日米開戦は避けがたい」というのが堂々と述べられほどで、岩畔が「勝算があるのか」と反問すると「もはや勝敗は問題ではない」という暴論がかえってきた。非戦論の多い海軍もやがて主戦派の抬頭となって不調に終わり、岩畔は天を仰いで嘆いた。8月直談判した陸軍大臣東條英機に近衛歩兵第5連隊長に転出を命じられた。

なお、独ソ戦開始により、岩畔、野村とコーデル・ハルらの定期的な交渉が暗礁に乗り上げた時、コーデル・ハルは「今後、(日米関係)がどんなことになっても君たちの真剣な努力は忘れないし、君たちの安全は私が保証する」と述べたという。事実、戦後、アメリカ軍に取り調べを受ける岩畔であったが、イギリスは、岩畔らが大戦中に展開したインド独立工作に対する恨みから執拗に引き渡しを要求する。文字通り「矢の催促」であったという。シンガポールに連行して軍事法廷にかけるというのである。しかし、アメリカは 「まだ当方の取り調べがすんでいない」と頑として引き渡しを拒否している。 岩畔は「ハルが守ってくれている」と周囲に漏らしていたという。 井川忠雄らの回想によれば、当時のアメリカ国務省に優秀な人材がいないことに悩んでいたコーデル・ハルは、私にもあんな(岩畔のような)優秀な部下がいたらどんなに助かるだろうとよく漏らしていたという。

『日米秘密情報機関』

「影の軍隊」ムサシ機関長の告白

平城弘通   講談社   2010/9/17

<日米秘密情報機関は生きている>

・「ムサシ機関」とは、陸幕第二部別班、通称「別班」のことを指す。昭和4748年ごろ、共産党の機関紙「赤旗」によって、秘密謀略組織「影の軍隊」であると大きく宣伝をされ、国会でも追及を受けた組織だ。昭和48年(1973年)に金大中拉致事件が起きたときには、これも「別班」の仕事ではないかということで、また騒がれた。

・私は陸軍士官学校出身の職業軍人として中国大陸で転戦し、昭和26年(1951年)、警察予備隊(自衛隊の前身)に入隊した。22年間の自衛官生活のうち、中隊長(第8連隊第3大隊の第12中隊長)、大隊長(第7師団第7戦車大隊長)、連隊長(第7師団第23普通科連隊長)を務めた一時期以外は、大部分を情報将校として仕事にあたってきた。

・そのころは、米ソ冷戦時代で、両陣営の衝突は日本国内に甚大な影響をもたらすことは火を見るより明らかだった。自衛隊で早くからソ連情報を担当した私は、共産主義とは何か、その歴史的事実等に興味を持ち、研究を進めるうち、その非人道的な残酷な史実を突きつけられ、反共の思想を持つに至った。

・今日、非常の事態、たとえば大規模・同時多発テロ、北朝鮮の核攻撃、中国軍の南西諸島侵略など、現実の脅威に備えるため、政治家や国民が真剣に考えているのかどうか、誠に心許ない。しかし、情報機関は存在そのものが「秘」であり、いわんや活動の実態については極秘でなければならぬと信じている。

・さらに、三島由紀夫に影響を与えたとされている山本舜勝元陸将補(元自衛隊調査学校副校長)は、平成13年に出版した『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』で、自衛隊の諜報活動の存在を明らかにしている。

 加えて近年、「自衛隊 影の部隊」に関する本が、塚本勝一元陸幕ニ部長(『自衛隊の情報戦陸幕第二部長の回想』)や松本重夫調査隊第一科長(『自衛隊「影の部隊」情報戦 秘録』)らによって相次いで出版され、さらに先述の阿尾が『自衛隊秘密諜報機関』を出して、そのなかで本人が別班に所属していたことを公表した。そして、「ムサシ機関」という秘密機関は実在し、機関長は平城一佐だったと暴露してしまったのだ…………。そのため私は、多くのマスコミから電話や手紙による取材攻勢を受け、その対応に苦慮した。

・とくに、その是非は別として、現在は専守防衛を国是とする日本では、情報こそが国家の浮沈を握る。その中心部分を担う「日米秘密情報機関」、いってみれば「自衛隊最強の部隊」が、その後、消滅したとは思えない。私は、現在でも、この「影の軍隊」が日本のどこかに存在し、日々、情報の収集に当たっていると確信している。

・明石元二郎大佐は日露戦争全般を通して、ロシア国内の政情不安を画策、日本の勝利に貢献した。そのため、彼の働きを見たドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果をあげた」と賞讃した。また、陸軍参謀本部参謀次長の長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団にも相当する」と評している。

 明石のDNAを、自衛隊は、いや日本人は受け継いでいるのだ――。

<東方二部特別調査班の活躍>

・私が力を入れた東方二部特別調査班(調査隊所属)は、昭和443月、編制を完了し、大阪釜ヶ崎を経て山谷に入り訓練を重ね、同年6月から本格的行動に移った。一部を横浜方面に派遣し、主力は山谷を拠点として、さまざまな集会、とくに過激派の集会には必ず潜入させ、各種の貴重な情報を入手させた。ただ、攪乱工作をやるような力はなく、もっぱら情報収集を秘密裡に行う活動だった。

 私は武装闘争をいちばん警戒していたから、武器を持っているか、どのくらいの勢力か、リーダーは何をいっているのか、そのようなところに重点を置いて情報を収集した。

<三島由紀夫との出会い>

<三島事件は、自衛隊史上、最大の汚辱事件>

・私の二部長時代には、文壇では既にノーベル文学賞作家に擬せられる大家であったが、文人としては珍しく防衛に関心のある人物として、三島に好意を持っていた。

・その後、事件の詳細を知るにつけ、私が痛感したことがある。それは、三島の憂国の至情はわかるとしても、あのような内外情勢、とくに警察力で完全に左翼過激勢力を制圧している状況下で、自衛隊が治安出動する大義がない、ということだ。それを、事もあろうに、いままで恩義を受けた自衛隊のなかで総監を監禁し、隊員にクーデターを煽動するとは……。

<二将軍は果たして裏切ったのか>

・だが私は、三島がそれにあきたらず、自ら立案したクーデター計画の実行にのめり込んでいく様子に気づいていた。(中略)武士道、自己犠牲、潔い死という、彼の美学に結びついた理念、概念に正面切って立ち向かうことが私にはできなかった。(中略)

 三島のクーデター計画が結局闇に葬られることになったのは、初夏に入ったころだった。私はその経緯を詳しくは知らない。(中略)

 いずれにせよ二人のジェネラルは、自らの立場を危うくされることを恐れ、一度は認めた構想を握りつぶしてしまったのであろう。(『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝、講談社)

<三島には大局観を教えなかったがために>

・以上のような山本舜勝氏の回想記を読んだ私の所感は次のようなものだった。

 まず、山本一佐の教育は兵隊ごっこといわれても文句のいえないもの。情報活動の実務、技術は教えているが、情勢判断、大局観を教えていない。とくに、三島の檄文を除いて、この著書のどこにも警察力のことが書かれていない。三島のクーデター計画でも、警察力には触れず、いきなり自衛隊の治安出動を考えているが、自衛隊の出動事態に対する

研究がまったく不足している。

『自衛隊「影の部隊」情報戦 秘録』

松本重夫  アスペクト     2008/11

・かつてマスコミや革新政党から「影の部隊」あるいは「影の軍隊」と呼ばれ、警戒された組織があった。自衛隊にあって情報収集と分析を専門に行う「調査隊」だ。私は調査隊の編成からかかわった、生みの親の一人である。

・私は陸軍の兵団参謀の一人として、終戦を迎えた。戦後たまたま米国陸軍情報部(CIC)と接点を持ったことから、彼らの「情報理論」の一端に触れることになった。

 それはかつて陸軍士官学校の教育にも存在していなかった、優れて緻密な理論体系だった。それを研究すればするほど、私は日本の敗戦の理由の1つは、陸軍のみならず日本の国家すべてが「情報理論」の重要さを軽視したことにあると確信した。残念ながら戦後半世紀以上たった現在も、その状況は変わっていない。

<「葉隠」の真意>

1945(昭和20)年85日、私は宮中に参内して天皇陛下に拝謁を賜り、茶菓と煙草を戴いて、翌6日、陸軍大学の卒業式を迎えた。卒業式終了後、記念写真を撮り昼食の会食となる。そのころに、学生の仲間内で広島に大型爆弾の投下があったという噂を聞いた。その大きさは6トンまたは10トン爆弾かというような情報が流れ、「原爆」という表現は伝わらなかったが、しばらくして、「原子爆弾」という情報が不確定的ながら耳に入り、大変なものが投下されたなと思いつつも、各自、それぞれの任地に向かった。

<三島由紀夫事件の隠れた責任者>

1970(昭和45)年1125日、作家の三島由紀夫が「盾の会」会員とともに市ヶ谷自衛隊駐屯地、東部方面総監室に立てこもり、割腹自殺を遂げた。私は当時、既に自衛隊を退職し、情報理論と独自の情報人脈を駆使して、民間人の立場で「影の戦争」を闘っていた。

・三島事件の陰には調査隊および調査学校関係者がかかわっていたことは、山本舜勝元陸将補が『自衛隊「影の部隊」・三島由紀夫を殺した真実の告白』(講談社刊)という著書で明らかにしている。

 私は、山本氏が三島由紀夫を訓練しているということは、それとなく聞いていた。

そのとき私は、「ビール瓶を切るのに、ダイヤの指輪を使うようなことはやめた方がいい」と話した覚えがある。私は、山本氏らの動きは、三島のような芸術家に対してその使いどころを間違えていると思っていた。

・山本氏は、私が幹部学校の研究員(国土戦・戦略情報研究主任)だったときに、調査学校長だった藤原岩市に呼ばれて、調査学校に研究部員として着任してきた。研究テーマは私と同じ、専守防衛を前提としての国土戦つまり遊撃戦(ゲリラ戦)であった。私はその当時、韓国の予備役軍人や一般国民で組織される「郷土予備軍設置法」なども参考にしながら「国土戦論」を練り上げていた。

・山本氏らが調査学校の教官となり、「対心理過程」などの特殊部隊の養成を担当することになった。それが前述したように当初の私の構想とは異なった方向に進んでいたことは気づいていた。結局そのズレが「青桐事件」となり、三島由紀夫に「スパイごっこ」をさせてしまうような事態を招いてしまうことになったのだといわざるを得ない。

・山本氏に三島を紹介したのは藤原岩市である。山本氏によって通常では一般人が触れることのできない「情報部隊の教育」を受けさせ、三島の意識を高揚させることに成功するが、三島がコントロールできなくなると、藤原らは一斉に手を引き、山本氏と三島を孤立させていく。そのあたりの経緯を山本氏の著書から引用してみよう。

文学界の頂点に立つ人気作家三島由紀夫の存在は、自衛隊にとって願ってもない知的な広告塔であり、利用価値は十分あった

《しかし三島は、彼らの言いなりになる手駒ではなかった。藤原らジュネラルたちは、『三島が自衛隊の地位を引き上げるために、何も言わずにおとなしく死んでくれる』というだけではすまなくなりそうだということに気づき始めた》

《藤原は三島の構想に耳を傾けながら、参議院選挙立候補の準備を進めていた。今にして考えてみれば、参議院議員をめざすということは、部隊を動かす立場を自ら外れることになる。仮にクーデター計画が実行されたとしても、その責を免れる立場に逃げ込んだとも言えるのではないか》

 この山本氏の遺作は、三島由紀夫の死に対して自らのかかわりと責任の所在を明らかにすると同時に、三島を利用しようとした藤原岩市らかつての上官たちの責任を示し、歴史に記録しておきたいという意志が感じられる。

<田中軍団の情報員>

・かつてマスコミが竹下派七奉行として、金丸信元副総理を中心に自民党内で権勢を振るった人物を挙げていた。梶山静六、小渕恵三、橋本龍太郎、羽田孜、渡部恒三、小沢一郎、奥田敬和。この格付けには異論がある。

・この「七奉行」の表現から抜けていて、忘れられている人物に亀岡高夫がいる。彼は金丸のように目立って権力を行使しなかったが、「創政会…経世会」の設立時に、田中角栄の密命を受けて竹下を総裁・総理にする工作を、築地の料亭「桂」において計画推進した主導者の一人である。

・この亀岡高夫と私が陸士53期の同期生でしかも「寝台戦友」であることは既に述べた。しかもGHQCICと協力して活動した「山賊会」のメンバーであり、自衛隊時代そして除隊してから、彼が昭和天皇の葬儀のときに倒れて亡くなるまで、私の戦後の「情報活動」は亀岡とともにあった。

・私は亀岡と顔を見合わせた。「福田は来ていないな……」

 福田は都議までしか挨拶に行っていない。下を固めろ。本部に戻ってその情報をもとに、方針を決めた。

「区議会議員と村長、市町村、これを全部やれ。県議は相手にするな」

 電話で全国の田中軍団に指令を出した。県議も区議、村長も同じ1票。福田派は県議のところに行って、その下の国民に一番密着している人のところに行っていなかった。県議に行けば下は押さえることができるという、古い考え方だった。それを田中軍団が、ごっそりとさらっていった。

 そのように密かに票固めを行っている最中に、福田の方から、国会での本選挙はやめようという申し出があった。田中は「しめた!」とばかりにその申し出を受け、劇的な勝利につながっていった。

 この総裁選がいわゆる「田中軍団」のローラー型選挙の嚆矢といわれている。そのきっかけは私と亀岡の地道な調査活動にあったことはあまり知られていない。

<中国情報部の対日情報活動>

・やや古いが、その当時私が入手していた、中国の情報機関に関する情報をもとにこの問題を整理すると、次のような背景がわかった。

 1974年当時、中国では国家安全省は誕生してなく、北京市公安局が国内外の情報を収集する機関としては中国最大の組織であり、約1万人ほどいたといわれる。当時の北京市公安局は13の部門に分かれていた。

・それぞれの科の中には、さらに最高レベルの秘密扱いにされていた外国大使館担当班が存在していた。第3処 尾行・視察調査 第4処 海外から送られてくる手紙などの開封作業を担当 (略) 第7処 不穏分子や海外からのスパイ容疑者の尋問  

こうした北京市・公安局の活動に対して、日本大使館の防諜意識は信じがたいほど低かったとの情報もある。

 29名いたとされる日本大使館に対する盗聴チームのもとには、常に新鮮なデータが集まっていたという(例:ある大使館幹部と、大使館員の妻とのダブル不倫関係まで把握していたほどであるという)。

O-157、サリン事件の背景で>

・「対情報」の研究というのは今風にいえば対テロリズムの研究もそこに含まれる。そこではかつての大戦中の各国が行った生物・化学兵器の使用データの分析も行っている。

・資料が特ダネ式に入手されたとすれば、警視庁内の秘密保全のルーズさを示す“恥”となろう。しかし、これはどちらかといえば公安関係者からの意図的なリークに等しい。公安委員長(国務大臣)の責任・罷免に発展してもおかしくないのだが、ほとんどの国民は、この問題に関心を示すことはなかった。現実にはこの国では、こうした問題は機密漏洩対策の向上に役立てられることもなく、いわば政争の道具に利用されただけだ。「スパイ天国日本」という世界の防諜関係者からの汚名の返上は当分できそうにないようだ。

<●●インターネット情報から●●>

(CNN)( 2014/10/16)米紙ニューヨーク・タイムズは16日までに、イラクに駐留している米軍が化学兵器を発見し、一部の米兵がそれにより負傷していたにもかかわらず、米政府が情報を隠ぺいしていたと報じた。

記事によれば2003年以降、マスタードガスや神経ガスとの接触により、米兵17人とイラク人警官7人が負傷。彼らは適切な治療を受けられなかったばかりか、化学兵器で負傷したことを口外しないよう命じられたという。

「2004~11年に、米軍や米軍による訓練を受けたイラク軍部隊は、フセイン政権時代から残る化学兵器に何度も遭遇し、少なくとも6回、負傷者が出た」と同紙は伝えている。

同紙によれば、米軍が発見した化学兵器の数は合わせて5000個ほどに上るという。

「米国は、イラクには大量破壊兵器計画があるに違いないとして戦争を始めた。だが米軍が徐々に見つけ、最終的に被害を受けたものは、欧米との緊密な協力によって築き上げられ、ずっと昔に放棄された大量破壊兵器計画の遺物だった」と同紙は伝えている。

国防総省のカービー報道官は、この報道に関連し、詳細は把握していないと述べる一方で、2000年代半ばから10年もしくは11年までの間に、化学兵器を浴びた米兵は約20人に上ることを認めた。

ニューヨーク・タイムズは政府が情報を隠ぺいしようとした理由について、事故を起こした化学兵器の設計・製造に欧米企業が関与している可能性があったことや、製造時期が1991年以前と古く、フセイン政権末期に大量破壊兵器計画があったとする米政府の説を裏付けるものではなかったからではないかとみている。

<●●インターネット情報から●●>

イラクに化学兵器あった~NYタイムズ紙

<20141016 6:48 >

 15日付のアメリカ・ニューヨークタイムズ紙は、イラクでフセイン政権時代の化学兵器が見つかっていたと報じた。

 それによると、イラク戦争後の2004年から11年にかけて、首都・バグダッド周辺でフセイン政権時代のマスタードガスやサリンなど化学兵器の弾頭5000発以上が見つかったという。弾頭は腐食していたものの、有毒ガスにさらされたアメリカ兵などがケガをしたとしている。アメリカ政府はこれまで、イラク戦争開戦の根拠とした化学兵器を含む大量破壊兵器は見つからなかったとしている。発見を公表しなかった理由について、ニューヨークタイムズは、化学兵器が欧米製だとみられたことなどを挙げている。

 これについて国防総省は15日、イラクで化学兵器が発見されアメリカ兵約20人が有毒ガスにさらされたことは認めたが、公表しなかった理由については明らかにしなかった。

『実録 自衛隊パイロットたちが目撃したUFO』

地球外生命は原発を見張っている

佐藤守   講談社  2014/11/20

・ただ単に、「UFOなどという非科学的なものを見たというような人物は精神的にどこかおかしい」とする観念に国や自衛隊のトップが囚われていて、UFOの目撃は非現実的な錯覚だと決め付けているのです。私が危惧しているのは、こうした指導層のUFOに対する無関心です。

・ところが今もって、自衛隊内部では、UFOを目撃したなどと報告しようものなら、「貴様、頭でもおかしくなったのか」と一蹴され、過去には正直に報告したがため、辛い目に遭った後輩もいます。

 UFO問題は、かように日本の安全保障にもつながる重大問題であるにもかかわらず、民間でも「サイエンスフィクション」として興味本位に扱われるだけ。真正面から科学的に調査・分析するという姿勢がまったくといっていいほど見受けられません。

・ただ、これだけはまちがいありません。彼らの話を総合し、かつ私自身の経験に照らし合わせてみると、「UFOは確実に実在する」と、自信を持って断言できます。

<UFOがたびたび目撃される基地>

・私が自衛官のUFO目撃談を集めてみると、ある傾向に気づきました。それは、不思議とUFO目撃談は、ある特定の基地に偏っているという事実、UFOの名所があるようなのです。

 たとえば取材したなかで最も多かったのは、松島基地に関するレポートでした。

<アメリカからの強烈なコンタクト>

・UFOに関してはずぶの素人の私の問いかけに、これだけの目撃談が集まったのには驚きました。

「正体不明の飛行物体」に対処すべき任務を持つ防衛省・航空自衛隊が、今まで領空に侵入してくる対象は「他国の航空機」だけであるかのような感覚ではなく、レーダーに映った、またはパイロットが目撃した「正体不明物体」のデータも、いかがわしいと思うことなく素直に収集していれば、この五十余年の間に貴重な資料が集積でき、科学的根拠も整っていたに違いありません。

 すでに北朝鮮のミサイルに備えなければならない事態が迫っているのですから、今までのような航空警戒レーダー網が「低速度目標」ばかりを意識していては、日本の空は守れません。

・しかし、未だにUFOといえば、オカルトかSFのような感覚でしか捉えられていないようですし、わが政府の扱いも、麻生太郎氏の答弁からうかがえるように、サイエンスフィクション的発想に留まっています。これでは、第一線の部隊に「UFO関連情報」収集を義務付けるように求める日は、永遠にやって来ないのかもしれません。

 しかし、私のUFOに対する調査に、信頼する部下たちから素直な体験談が寄せられたうえ、その後、私も家族とともにUFOを目撃することになったのですから、彼らの証言を簡単には否定することはできません。

・ところが、資料を分析して一つ強く感じたことがあります。それは、現代日本人のUFOに対する姿勢に、排除または封じ込めようという風潮が蔓延している点です。

・ところで、2010年に上梓した『実録 自衛隊パイロットたちが接近遭遇したUFO』を読んだ読者からは、本書に収録した以外にも多くのメッセージを賜りましたし、テレビや雑誌などからも取材を受けました。そのなかに、グレゴリー・サリバン氏という「ETコンタクト活動家」がいました。

・名刺には「JCETI」、肩書は「ETコンタクト・コーディネーター」とあり、活動内容と経歴を聞くと、実に興味ある答えが返ってきました。「2003年ニューヨークを旅立ち、ニュージーランドに半年滞在、その後来日、日本が非常に気に入ったので現在は福岡を拠点に活動中」だというのです。

 現在は、「地球外知的生命体(ETI)とコンタクトしながら、コンタクトのためのテクニックをナビゲートするセミナーなども交え、特別なスカイウォッチング『第5種接近遭遇』のイベントを全国で展開中」なのだそうです。

・私の本を読んで、多くの自衛官たちがUFOを目撃したのはその第一歩であり、それは「第1種接近遭遇」段階だといいます。「第2種接近遭遇」段階は。「UFOをレーダーで記録すること」であり、「第3種接近遭遇」段階は「宇宙人を目撃すること」、「第4種接近遭遇」段階は「UFO船内で宇宙人とコミュニケーションを行うこと」であり、そして最後の「第5種接近遭遇」段階は、「人間から発信し、宇宙人と双方向のコミュニケーションを行うこと」――彼はそのナビゲートをしているというのですから、いつか私もコンタクトさせてくれるに違いありません。

3時間ほど楽しい会話が続き、時が経つのを忘れるほどでしたが、実に清潔感あふれる好青年で、彼こそ「地球外生命そのものではないか?」と想像を豊かにしたくらいです。

 このときの彼との「遭遇」で得られた成果は、私に寄せられた多くの体験談の信憑性が確かめられたこと、「宇宙人=地球侵略者」という悪しきイメージは、「アメリカのメディアによって植えつけられた誤ったイメージ」であること、「宇宙人は常に地球、特に核エネルギーの未熟な扱い方について見守ってくれているのだ」ということ………。

・結論は、UFOは物質ではなく、「光体やエネルギー体」であり、いろいろな「利権」に絡んでいる各国政府は、自己保存のためにその存在を隠蔽し続けてきたのだということでした。

・本書は、20107月に講談社から発刊した『実録 自衛隊パイロットたちが接近遭遇したUFO』に新しく寄せられた情報を大幅に加筆、改題のうえ再編集したものです。


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by karasusan | 2016-02-20 17:41 | その他 | Comments(0)