「歯がはえて生まれた子」に属する「異形誕生児」について考えを進めると、異形誕生児=「神の化身」「神の子」「神の申し子」という図式が浮かんでくる。(1)

『鬼の系譜』

佐藤秀治    文芸社  2004/11

<童子生誕伝承とは>

・この「森立峠」を境とした栃尾側の山村の名を「軽井沢」という。この軽井沢には、昔から鬼の子が生まれたという伝承があり、そのことを内外に証拠付ける次のような柳田國男の記述がある。

「(前略)……越後にも一箇所あって、今の古志郡荷頃村大字軽井澤(現在の栃尾市軽井沢)、茨城善次右衛門はこれ其生家と称し、連綿として若干の記憶を傳へて居た。例えば、家の背後に童子が住んだといふ岩屋、それは崩れて其跡に清き泉沸き、流れの末には十坪ばかりの空地あって、童子出生の地と称して永く耕作をさせなかった。悪人に対する記念では無かったのである。……(後略)」

 鬼の姓は「茨木」といい、悪人として受け止められていないことやここ軽井沢の他にも生誕伝承を語り継ぐ土地があるらしいことが読み取れる。

 

この鬼とは、茨木童子のことである。茨木童子とは、「羅城門の鬼」「一条戻橋」「綱屋敷」「茨木」など歌舞伎や能や謡の世界で登場している鬼である。昭和の時代には、茨木という鬼について知らずとも、源頼光の四天王としての一人、渡辺綱と戦った鬼の話となれば、ほとんどの世代が知っていたと思われる物語である。また、『御伽草子』の中の「大江山」の鬼の首領、酒呑童子の参謀・片腕といったほうがわかりやすいかもしれない。

 

・この軽井沢を中心に荷頃村(北荷頃・一ノ貝・比礼・軽井沢)、栃尾市の西谷地区一帯に流布する童子の生誕にかかわる伝承はおよそ次のようなものであった。

 長岡市の東側には越後山脈が連なる。その越後山脈の手前には、海抜は低いが東山連峰がある。その東山連峰の裏側が栃尾市である。長岡の悠久山から、かつて国民宿舎があった「八方台」に続く道はつづら折の急坂で、山頂付近の分岐点を「森立峠」という。森立峠を栃尾側に下るところが、茨木童子誕生の伝承が残っている軽井沢集落である。

 童子は大同元年(806)に、ここ軽井沢に生まれたとされている。童子の生家は、門名を「西」といい、村の中心部に広大な敷地を有した豪農であった。

14カ月の間、母親の胎内に留まって生まれ出たという生誕逸話は、生まれながらにして人の子のルートから逸脱し、神がかり的な人知を超えた存在だという側面を際立たせている。加えて生まれ落ちたときは、髪長く、眼光鋭く、牙が生えて、その強盛さはすでに成人の域を超えていたというのである。しかし、幼年期を迎えると利発で絶世の美男子に変貌する。成長するにつれますます美しく、才気溢れ、腕力も他に比較する者もなかったという。

 そんな童子の美しさに言い寄る女性は数知れず、近隣の村々から一目逢いたいと年頃の女性の行列が後を絶たず、恋文・投げ文のたぐいはついぞ絶える日がなかった。そこで、童子の行く末を大いに案じた両親は寺に相談し、泣く泣く越後一宮の弥彦神社に稚児に上げることを決心したのであった。弥彦で寺社の仕事に携わるかたわら学問や妖術を習う機会を得て、知力はますます増したという。

・このように、童子が鬼と化した時を同じくして、同様に数奇な運命のもと鬼と化した国上寺の侍童・酒呑童子(新潟県西蒲原出身)は寺から追い出された。そして、すでに親交を結んでいた茨木童子の生家で合流し、一時屋敷内の窟でともに野獣のごとき身なりで暮らし、その後、鬼倉山の洞窟に移り棲み、まな板岩の上で小動物を料理しては、毎日のように村中を荒らし回り悪行の限りを尽くしたという。

 

・それから幾年月が過ぎ、時代も移り変わり、茨木のことなど人の記憶から消え去った頃、都から来た旅人の一夜の語りから、京都での鬼たちの小気味よい活躍の様子を聞き、「ああ、あれがわが軽井沢の茨木ではないか」と人々は口々に言い合い、それが英雄誕生秘話を引き寄せ、語り継がれながら伝承は形成され、今日に至ったものと私は受け止めている。

<鬼子 稚児 童子>

<鬼子>

・『広辞苑』によれば、「親に似ない子」「おにっこ」、「鬼のように荒々しい子」「歯がはえて生まれた子」とあり、「親に似ない子」「おにっこ」は、通常な意味について、「鬼のような荒々しい子」とは比喩的な使われ方、「歯がはえて生まれた子」は、異形誕生児のこととある。

・よって、慶長年間の九州地方では、歯、爪、髪などが過剰な赤子を「鬼子」と呼んでいたことが推測される。

 それを受けて「歯がはえて生まれた子」に属する「異形誕生児」について考えを進めると、異形誕生児=「神の化身」「神の子」「神の申し子」という図式が浮かんでくる。それはそのまま、「強い生命力」「神聖で犯さざるもの」という意味も付随する。なぜ、そのようなことに簡単に結びつくのかという臆測と、現実には果たして誰の子かわからないという、出生秘話のただ事ではない、そこにはまた、『異類婚』としての側面も覗かせている。「神と人との子」「魔物と人の子」「動物と人の子」………生まれ落ちた子たちである。関連するものとして、鬼神の中に「鬼子母神」という女神がいる。鬼子母神とは「子育て・安産」の神として、人々から厚い信仰を受けている。

<授かりし神の子、申し子>

・しかし、秘密裡に子育てしたにしろ、異形の子どもであったがゆえに、他の子供と違った側面をいやがおうにも際立たせた。それは粗暴だったり、この世にない美男子だったりした。父親は、霊鬼であって、鬼神である。「神の子」とも「鬼の子」ともいえる。平安朝以後は、神の「申し子」として出生する。人間の祈願に応じて生まれたもの。神と人の神婚によって生まれたもの。鬼が山神や祖霊であるとするならば、「鬼の子孫」という伝承は一族がケガレるという側面だけでなく、誇りを持って語り継ぐはずではなかったのか、という思いが浮かんでくる。やはり異類婚として、父親が不明ということが敬遠される要因なのかもしれない。あるいは妬み、あるいは人を近づけないようにしようとする意図が隠されているのかもしれない。

鬼と人間の異類婚姻、つまり島国としての単一民族の思想がそこに隠されているような気がする。

<「鬼子」の風習>

・夢の中に異人を見ると必ず鬼子をはらむものといわれ、その子を柳の枝に掛けておくと一夜過ぎれば失せてないとされている。

・一方、歯が早く生える子を、出世が早いと喜ぶ地域もある。

・人間の異形には「出来すぎ」もあった。

・大男も「異端」のうちに入った。

・長崎県五島の久我島では、母親が33の年に女の子を産むと、鬼子として「拾い親」を持たせるが、男の子を産めば大喜びする。

・「鬼子の孝行」といって、親に福をもたらす鬼子の昔話も多い。鬼は富と結びついて、鬼子は富とともに、山からもたらされたケースが話の基盤になっている。

屋久島には、オンノコヤキバとかオンノコヤキハマといって歯が生えた子を焼いた場所があるという。

<「鬼子殺し」の伝承>

歯が生えて生まれるほどの異相の子を儲けると、たいていは動揺して即座にこれを殺した。こうすることによって、酒呑童子や茨木童子の追随する悪業の根を絶ったのだ。その代わりに、道場法師や武蔵坊弁慶のごとき、絶倫の勇武強力を発揮する機会をも与えなかった。天下太平の世になれば尚のことであったと思われる。ただ、鬼子の生まれたときの対処法が、その時代ごとに社会通念としてすでに決まっていたことに注目したい。

・世に受けられない鬼子の運命は、殺されるか、山へ捨てられるか、寺にやらされるかであった。山も寺も他界である。

・霊山には、遠い古代から山の神の産育に関する信仰が伝わっており、霊山のあるところ、厚く山の女神が尊崇され、神子誕生の伝承が信じられていた。

・異類婚で生まれた子は、霊力が宿っている。「聖なるもの」は、異形誕生するという観念の表れがあり、祈願により生まれた「申し子」であることが必要だった。

・鬼子と呼ばれたものたちの外見上の特徴として以下のようなものがある。

・生まれたときに、歯が生えていた。

・生まれ落ちたとき、大きさが3歳児くらいであった。

眼が三つ。両眼の他に額に一つ眼がある。

・口広く耳まで裂け、上下の顎には二本ずつ牙のような歯が生えていた。

全身が異様なほどに赤く、まるで血を全身に浴びたようだった。顔の色が赤く、その赤は朱色に近い。

・髪は長く、おかっぱ頭くらい。

・立って三歩歩く。生まれてすぐに踊りだす。

・立ち上がって歩き始め、とっとと走り出した。

・自分の体を母親の産道から引きずり出した。

角が生えていた。

・母の胎内に十数カ月から数年間とどまる。

・生まれてすぐに母親を一口で食った。

(童子)の定義の一つ。 菩薩の意称。仏・如来の王子であるからいう。菩薩・明王などの眷属

(童子) 能面の一つ。童顔の神仙を表す男面。

・(稚児)の定義。 神社・寺院などで、祭礼・法楽などの行列に美装して出る男女の児童。男色の相手方である少年。

<童子姿の意味とは>

・童子姿は、老いとはまったく無縁なこと。仙境の王のイメージに対応している。いわゆる普通の人間の少年ではなく、永遠の若さを象徴する神仙の化身として、優雅で妖精的な神秘に満ちているのである。童形に特異な霊力が宿るという主張である。古代、中世にかけて、髪をザンバラにすることは、呪力、神の力があると信じられていた。童あるいは童形の人は、少なくとも中世前期までは、「聖なる存在」として、人ならぬ力を持つとされていた。特異な霊力は、古代、中世の子供が、霊界(神と鬼の世界)と人間界の中間的存在で、聖俗両界を自由に往来し、かつ、そのどちらにもとどまらない境界性・性的中立性・未成人としての社会的周縁性を持つものであった。

 酒呑童子の本質は竜王(水神)であり、竜王は多く童子姿で現れた。絵巻の絵師が、酒呑童子を雷神(水神)に見立てていたことは明らかである。雷神も水神だから、落雷すると童形になる。

・天皇の柩を担う駕神輿丁であった八瀬童子は、非人の職能の一つであった葬送に関与したことから童子すがたであった。

 ついでに天狗と稚児の関係についても言及しておこう。天狗は、古くから近代にいたるまで人をさらうといわれる。中世では、特に稚児を好んだ。稚児は寺僧たちにとって愛玩執着の対象であった。東大寺の稚児が殺害される事件などでは、諸大寺と力を合わせ強訴を起こし、いかに重大であったかがわかる。天狗による稚児の誘拐が寺同士の合戦にまで及ぶこともあった。

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より

<茨木童子>

茨木童子(いばらきどうじ)は、平安時代に大江山を本拠に京都を荒らし回ったとされる「鬼」の一人。茨城童子と書くこともある。酒呑童子(しゅてんどうじ)の最も重要な家来であった。

出生地には、摂津国(大阪府茨木市水尾、または兵庫県尼崎市富松)という説と、越後国(新潟県長岡市の軽井沢集落)という説がある。生まれた頃から歯が生え揃っていた、巨体であったなど周囲から恐れられ、鬼と化した後は酒呑童子と出会い舎弟となり、共に京を目指した。

酒呑童子一味は大江山(丹波国にあったとされるが、現在の京都市と亀岡市の境にある大枝山という説もある)を拠点にし、京の貴族の子女を誘拐するなど乱暴狼藉をはたらいたが、源頼光と4人の家臣たち(頼光四天王)によって滅ぼされたという。 しかし茨木童子は逃げ延びたとされ、その後も頼光四天王の一人である渡辺綱と一条戻橋や羅生門で戦った故事が後世の説話集や能、謡曲、歌舞伎などで語り継がれている。

『祭祀と異界』

渡来の祭りと精霊の行脚

前田憲二    現代書館   2015/5/1

鬼の子孫・八瀬童子の赦免地踊り>

<八瀬の歴史的背景>

・八瀬は主に農林業を中心に、若鮎、小鹿、山菜などを収穫し、天皇家に献上してきた集落だ。天皇成立期より天皇家との連携は深いと考えられるが、文献によれば中世以後、御所との繋がりは親密で、16歳を過ぎた男子は八瀬童子と呼ばれ、天皇の行幸(御行)のときは必ず駕輿丁(かよちょう)として出仕することが慣例になっていた。そのため八瀬の人びとは御所への出入りが許されていた。

 日本でもっとも古い祭事は、京の「葵祭り」(賀茂祭り)だろう。この祭事の特色は天皇家を護衛する要人と、その連隊が御所を出発し下鴨神社(賀茂別雷神社)を御練して、武射神事、走馬、競馬会、烏相撲などの神事を行なうことである。葵祭りは朝鮮三国のひとつ新羅渡来の秦氏が、京開拓の儀式として伝承してきた祭事だと考えられている。

ではなぜ八瀬童子は「鬼の子孫」と呼称されたのだろうか。

池田昭の『天皇制と八瀬童子』(東方出版)ではこのように記している。少々長くなるが写してみる。

 いずれにせよ、室町末と徳川前・中期の伝承では、八瀬の人々は門跡ないしは座主が冥府に従来するさいに供奉下二鬼の子孫であると考えられていた。

 このような意味の鬼の子孫の伝承と類似した伝承のある人々に、奈良県吉野郡下北山村前鬼の人々がある。修験道の改組、役小角に従った前鬼と後鬼がこの地に住み、その子孫の五鬼はこの地の人々であると云われている。社会的にみると、両者には、座主・問跡と開祖の違いがあるにせよ、彼らは共通し宗教的首長に仕える従者である。

 そのうえ、八瀬の人々も、宗教的(とくに仏教的)にみると、彼らは共通し、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吨迦童子(せいたかどうじ)という二鬼の護法童子の伝承ももっていた。そうすると、彼らは、たんに宗教的首長に対する従者であったばかりでなく、矜羯羅童子のもつ随順さと制吨迦童子のもつ浄め二つの意味ないしは機能を供えた従者でもあった。

『鬼の風土記』

 服部邦夫  青弓社   2006/8

<酒呑童子>

・この鬼の面から受ける印象は、“落魄した鬼”のイメージだ。現に国分寺の鬼夫婦は、人間夫婦に姿をやつして、下男下女の存在にまで身を落さざるをえない状況に置かれていたのである。大江山を根城として、一大王国を誇っていた頃の、あの華々しい鬼どもの存在ぶりから見ると、まるで嘘のようである。

・よろいかぶとに身を固めた頼光たちは、首尾よく酒呑童子をはじめ茨木童子、いくしま童子、とらくま童子、かね童子や門を固めていた十人余りの鬼どもをことごとく討ち果たした。

 何々童子と呼ばれているこの鬼どもは、いったい何者であったか・・・。

越後の柏崎地方に弥三郎婆の伝説があることは、高木敏雄の『日本伝説集』によって広く知られているが、良寛ゆかりのこの山にも、稚児をさらう弥三郎婆の伝説と酒呑童子の伝説が残っている。

・伊吹の弥三郎伝説が、15世紀初めに成った説話集『三国伝記』に収められていることを、佐竹昭広氏の著書によって知ったが、その『三国伝』によるとー伊富貴山に弥三郎という変化の者が栖んでいた。遠く関東や鎮西まで往還し、人家の財宝を奪ったり、さまざまの害をおよぼしたので、当国の守護である佐々木備中守源頼綱が勅命によって弥三郎退治に出かけた。頼綱は、摩利支天の秘宝や陰形の術を修得して、高時川で弥三郎を退治した。その後、弥三郎の怨霊が毒蛇に変じて水害をもたらしたので、悪霊をまつって井明神と号したという。

お伽草子の「伊吹童子」の中では、弥三郎は近江国の大野木殿という有徳人の娘と通じたことになっており、いわゆる蛇聟入苧環(おだまき)型の求婚譚が展開されている。そして、弥三郎は大野木殿から好物の酒の接待にあずかって酒を飲みすぎたあげく命を落とすハメとなっている。その後、三十三カ月も胎内に宿って生まれた異形の子が伊吹童子である。運命の子は、大野木殿によって伊吹の山中に捨てられる、という“山中異常出生譚”として話が進行している。

・佐竹氏は、右の著書の中で伊吹童子が山中の“捨て童子”だったことから「伊吹山中の捨て童子は、後の酒呑童子である。シュテン童子の前身を捨て童子だったとする“伊吹童子”は、シュテン童子なる者の原像をはからずも露呈しているかのようだ」と指摘されている。

『私はアセンションした惑星から来た』

(金星人オムネク・オネクのメッセージ) 

 (オムネク・オネク) (徳間書店)2008/3

<金星人、火星人、土星人、木星人の特徴>

現在、アーリア人という呼び名で多くの人々が知っている白色人種は、金星から来ました。私たちはしばしば背の高い“天使のような存在”として、あなた方の世界のUFOコンタクティたちに語られています。私たちの身長は通常2メートル15センチから2メートル40センチほどで、長いブロンドの髪と、青また緑色の瞳をしていることでよく知られています。

黄色人種は火星から来ました。彼らは、細身で背が低く、髪は金色または濃い茶色をしていて、肌はオリーブ色から黄色がかった感じの人たちです。目は大きく、つりあがっていて、瞳の色は灰色から濃い茶色の間で人それぞれです。火星人は秘密主義の傾向があり、SFのイラストに描かれるような、幾重にも重なった精巧な未来都市を築いていることで知られています(火星人の生命波動も地球人の物理的な密度のものではありません)。火星人は東洋や太古のスペイン民族の歴史と関係しています。

地球を訪れた赤色人種は土星系の人たちでした。彼らは、最初は水星で進化を遂げていました。ところが水星の軌道が変わり、太陽により近くなってしまったために生存環境が厳しいものになり、彼らは、土星へ移住したのです。土星人の髪は赤色から茶色で、肌は赤らんでいて、瞳は黄色から緑色をしていることで知られています。体格は背が高く、がっしりとしていて、太陽系内では、筋骨たくましい人たちとして知られています。アトランティス人やネイティブアメリカンはそれぞれ土星人を祖先にもつ民族のひとつです。中でもエジプト人とアステカ族は、とりわけ土星人の影響を強く受けています。

黒色人種は木星系で進化を遂げた人たちです。彼らは、背が高く、堂々たる風貌をしていて、顔のサイズは大きく、角張った顎をしています。髪の色はつややかな深い黒で、瞳は茶色から青紫です。木星人はその声の美しさと、隠し事をしない開放的な性格でも知られています。彼らの子孫はアフリカやその他の地域に分布しています。

『鬼』 

 (高平鳴海、糸井賢一、大林憲司)(新紀元社)1999/8

<鬼はなぜ童子とよばれるのだろうか?>

童子とは、つまり元服前の稚児を示す言葉だが、童子はいわば蔑称で、時の支配者らが用いた言い回しである。鬼は確かに人々を驚かしていたが、その力を認めたがらず、下っ端=目下の者=童子と呼んだ。

<日本の伝承に残る鬼として>

・桃太郎の鬼(温羅)(うら)

・蝦夷の鬼王(悪路王)(あくろおう)

・有明山(信州富士とも呼ばれる)の鬼族(八面大王)(長野県の伝承)

・黄泉より還りし悪鬼(大嶽丸)(おおたけまる)(三重県鈴鹿山近辺の伝承)

・霊の化身(鬼八法師)(きはちほうし)九山岳地帯の伝承

・飛騨の怪人(両面宿儺)(りょうめんすくな)

「伊吹弥三郎」と「伊吹童子」の伝承(岐阜県北部伝承、日本書紀、御伽草子に登場)近江の伊吹山にいたとされる伊吹弥三郎は、創造神という顔と、魔物=鬼という顔がある。伊吹童子はその息子だという。

・天邪鬼(あまのじゃく)(人々に親しまれた小鬼)(和歌山県串本町の伝承)

・同胞を助けた「赤鬼」(せっき)出自は安倍晴明物語。

『鬼がつくった国・日本』  歴史を動かしてきた「闇」の力とは

小松和彦・内藤正敏   光文社文庫    1991/11

<「東北」の怨念を語りつぐ「田村三代記」>

・それで、こういう中央とまつろわぬ者の関係、日本の過去における京都を中心とする光の領域と、東北に代表される闇の領域との関係を象徴的に表している『田村の草子』という坂上田村麻呂の一族をモデルにした説話があるので、ここで紹介してみたいと思います。

 まず、田村利仁という人物が出て来て、妻嫌いをする。つまり、かたっぱしから縁談を断るんですが、ある日、大蛇が変身した美女を見初め、妻にする。女は妊娠し、自分の姿を見ちゃいけないといって産屋にこもる・・・。

・そう、タブーを破って見ちゃうわけ。それで、まさに「見たな」というわけで、「おまえは数年を経ずして死ぬが、子どもは英雄になる、覚えとけ」と預言して姿を消してしまうんです。

・それでね、いまの『田村の草子』には中央から見た鬼=まつろわぬ者のイメージがよく出ていると思うんですが、東北にも東北版『田村の草子』みたいなのがあるんですよ。『田村三代記』といわれているもので、話を簡単に紹介しますと、平安時代前期に都でまりのような光る物体が夜となく昼となく飛び回り、米俵、金銀、はては天皇への貢ぎ物まで持ち去ってしまうという騒ぎが起こるんです。

・未知との遭遇だね。第三種接近遭遇(笑)。

・そこで、陰陽師の博士に占わせると、伊勢国・鈴鹿山に天竺から来た魔王の娘である、巫女のいでたちをした立烏帽子というものがいて、日本転覆を計画しているという。しかも、日本にも立烏帽子におとらぬ鬼神である蝦夷の大嶽丸がいて、ほっておくといっしょになって攻めてくるというんです。で、そりゃたいへんだというので、田村利仁に追討を命じて、鈴鹿山に向かわせるんです。ところが、二万余騎の軍勢で探しても、立烏帽子は見つからない。そこで、魔の者に会うときは大勢で行くなという父利光の教えを思い出して、利仁一人を残して軍勢を返すと、三年以上たったある日、やっと立烏帽子を見つけるんです。すると、これがなんと紅の袴を着た歳のころは十六、七のピチピチのギャルちゃん。

・なんせ相手がかわいい女の子でしょ、さしもの田村丸も迷うんです。原文に「かようなる美麗なる女を討つとは何事ぞや。このうえはなかなか彼女にしたしむべきかと思召し賜えしが、いやまてしばし我心」とありますもの。

・ちょっと待て、だいたいそれで男は損しちゃうんだよね(笑)。そういえば、この『田村三代記』ってちょっとまえまで東北の座頭が奥浄瑠璃でやってたんでしょ。

・それでね、二人の戦いはなかなか勝負がつかないわけ。すると、立烏帽子が利仁の出自について語り始めるんです。それによると、利仁の祖父は星の子どもで、彼が龍と交わってできたのが父親の利光で、その利光が奥州の悪玉姫、これも鬼ですよ。それと契ってできたのが利仁だというんです。そして、田村三代は日本の悪魔を鎮めるための観音の再来だというんです。それで、自分は日本を転覆させにきて、蝦夷の大嶽丸にいっしょになってくれと何度も手紙を出したんだけれど、返事もくれない。でも、自分は女の身だからやっぱり男がいないとだめなの、あなたといっしょになって、二人で力をあわせて日本の悪魔をやっけようといいよるんです。

それで、二人は結ばれて近江の高丸という鬼を退治するように命じられるんです。二人が攻めていくと、高丸は常陸の鹿島の浦(茨城県)に逃げてしまったので、立烏帽子は利仁を光りん車というUFOみたいな乗り物に乗せて飛んでいくんです。で、高丸を攻撃するときの戦法っていうのがまたSF的で、呪文をかけて十二の星を降らせて星の舞いをさせたり、一本のかぶら矢を打つと、それがビーム砲か散弾銃みたいに千本の矢先となって鬼神に降り注いだり…。結局、高丸は二人に退治されてしまう。

<連綿と続く東北独立国家への試み>

『田村三代記』の主人公である田村利仁は、征夷大将軍の坂上田村麻呂と鎮守府将軍、つまり蝦夷に置かれた軍政府の長官であった藤原利仁とを合体させた人物なんだけど、彼は星の子どもと龍が交わってできた父親が、さらに悪玉姫という鬼と契って生まれたといわれるわけでしょう。龍と鬼という二重の異類婚によって生まれるわけですよね。その利仁が、立烏帽子という外来の魔性の女と交わって呪力を得て、蝦夷の鬼神の大嶽丸を倒す。これはまさに、まえに話した「異には異を」、「夷をもって夷を制する」という古代東北侵略のパターンそのものだと思うんです。

 ただ、東北の『田村三代記』がものすごく伝奇ロマンっぽくなっているのは、京都でつくられた『田村の草子』が東北でもう一度再生産され、京都を他界として描いているからでしょうね。

<日本史のすぐ裏側に、闇の文化史――鬼の日本史のようなものがあるのではないか>

『田村の草子』『田村三代記』については、すでに西村寿行氏が、それをネタにして傑作を書いておられます。これらとはり合うつもりの方、おられますか。おられませんか。

                                                                                                                                             

『鬼』 

(高平鳴海/糸井賢一/大本穣司)(エーアイスクエア)1999/8

<鬼女の伝承>

・長野県戸穏の女盗賊(紅葉)(くれは)

各地の伝承でも能舞で語られる場合でも、絶世の美女であったと伝えられる。しかし、罪を問われて戸穏に逃れ、その後悪事を重ねるごとに醜い姿になっていった。一説には、その身長は3メートルほどもあったという。

・英雄を助けた鬼女(鈴鹿御前)(すずかごぜん)

どの伝承を見ても、絶世の美女だったと記録されている。鈴鹿山の鬼女も「女」で「盗賊」だったことから、立烏帽子と呼ばれるようになったと考えられる。

御前は田村丸を「光輪車」という神通力で飛行する乗り物に乗せたかと思うと、瞬く間に内裏に降り立った。そして、光輪車で去っていった。

<熱き情念の化身>(清姫・(異名)白拍子、白拍子花子)

・和歌山県熊野地方の伝承。容姿については、伝承のパターンによって、ふたつ存在する。ひとつには夫に先立たれた寡婦(やもめ)で、イメージとしては妖艶な中年女性だろう。もうひとつは白拍子の少女の姿である。清姫といった場合、特にこちらの少女を指す。

 さらに彼女は、全長10メートルもの大蛇に変身することができ、これが第三の姿と呼ぶこともできる。

 清姫の物語は、熊野権現と関係が深く、その舞台は道成寺という寺である。主な登場人物は、清姫と彼女が恋焦がれる安珍という僧だ。

<●●インターネット情報から●●>

ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より、

「鈴鹿御前の物語」

・現在一般に流布する鈴鹿御前の伝説は、その多くを室町時代後期に成立した『鈴鹿の草子』『田村の草子』や、江戸時代に東北地方で盛んであった奥浄瑠璃『田村三代記』の諸本に負っている。鈴鹿御前は都への年貢・御物を奪い取る盗賊として登場し、田村の将軍俊宗が討伐を命じられる。ところが2人は夫婦仲になってしまい、娘まで儲ける。紆余曲折を経るが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力 によって悪事の高丸や大嶽丸といった鬼神は退治され、鈴鹿は天命により25歳で死ぬものの、俊宗が冥土へ乗り込んで奪い返し、2人は幸せに暮らす、というのが大筋である。ただし、写本や刊本はそれぞれに本文に異同が見られ、鈴鹿御前の位置づけも異なる。


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by karasusan | 2016-04-09 21:10 | その他 | Comments(0)