「UMA河童」の正体は異星人グレイか!?(1)

『河童の文化誌』 【明治・大正・昭和編】

和田寛   岩田書院  2010/3

・「古来、日本で河童がたくさんあらわれたのは常に澆季末世のときであった。飢饉とか天災とか、悪い大臣や役人が政府にいて、失政、苛斂誅求のつづいた時代、戦乱のあと、そして国民が疲弊し、幸福をうしない、頽廃の気が天下に満ちたときにかぎって、河童がはげしく出没している。私は河童を通じて現実を凝視することの大切さをあらためて悟るのである」と述べている。

「河童というやつは、不可解きわまる夜空の申し子のようなものではないだろうか。だから星の世界に何か怪しの異変が生じると、たちまち興奮してくるのではないだろうか」と書いている。

・著者(日野葦平)は「後書 河童独白」の中で次のように述べている。

 いま集めてみると、最新作「花嫁と瓢箪」まで、長短あわせて43編、4百字詰原稿紙にして千枚を超えている。もっとも15年間書いたものとすれば、そうおどろくほどの量ではなく、むしろ少ないといえるかも知れない。もっとカッパに夢中になっていたならば、百編を超え、枚数も3千枚に達していたであろう。しかし、これらの作品は私が小説を書く片手間仕事だと人々に思われ、私自身もそんなにカッパばかりを書いていることはできなかった。けれども私はけっして片手間に書いたわけではなく、どんな短い作品にも打ちこんで取り組んだし、すこし大仰にいえば、一つのカッパ作品ができあがることは、5百枚の長編が完成されると異ならないほどのよろこびであった。そして、いま思うのである。毀誉褒貶はともあれ、これはたしかに、私のライフワークの一つである、と。

<昭和45年(1970)>

・この年の7月に、白馬書房から大木伸一の『ロシアの河童―暮しの落穂拾いー』が出た。本書は、この時代に、研究が非常に困難であったソビエト社会の民俗学的考察で、著者自身のフィールド・ワークの成果である。

・本書の表題となっている「ロシアの河童」は、本書の最期に置かれた章で、ロシアの河童ともいえる。「ボジャノイ」と、水の精「ルサールカ」について触れたものである。

 今、「ロシアの河童ともいえる「ボジャノイ」」と書いたが、本書によると、ボジャノイは「頭、目を含めてモグラに似ています」「手と頭の位置の関係は、蛙のそれを思い出させます。そして手には水かきが、5本の指の間についている」と書かれていて、姿態に関しては日本の河童とあまり似ていない。

・著者は、老人から聞いた話や、様々な文献などから、これらの話を数多く紹介し、両者の関係について次のような結論を出している。

 かつて信仰対象あるいは憑きものとしてのボジャノイという幻想が存在した時代がある。これに伴う儀礼の呼称は、不幸にして不自然死を遂げた肉親への愛称として「ルサールカ」が、「ボジャノイ」にとってかわった。キリスト教の普及で「ボジャノイ」は小悪魔の領域に押しやられた。

 こうした状態で、かなりの年月を経過した後、ヨーロッパの「マーメイド」もしくは「ニンフ」の影響を受けて、少なくともロシア人の間では「ルサールカ」を「水の精」とするロマンチックな解釈が加わった。そして、「ボジャノイ」が殆んど忘れられて「ルサールカ」との混乱が始まった。今となっては、たとえ僅かでも民衆の間に「ボジャノイ」が残っているのではないか。

『河童の文化誌』 【平成編】

和田寛   岩田書院  2012/2

<平成8年(1996年)>

<河童の同類とされている座敷童子(ざしきわらし)>

・ザシキワラシ(座敷童子)については柳田國男の『遠野物語』によって知られていたところである。

<アメリカのニューメキシコ州の異星人の死体>

・この年に発行された『ムー』の4月号(第18巻第4号 通号195号)に異色読み物「異星人グレイの正体は河童だった!!」が載っている。

 この読み物では、最初に昭和60年(1985年)8月に長崎県対馬で起きた河童事件と平成3年(1991年)6月に宮崎県西都市で起きた河童事件のことが紹介される。この2つの事件の共通点は、粘液質の三角形の足跡と異臭を残していることである。

・話は一転して、アメリカのニューメキシコ州。1947年(昭和22年)7月に墜落したUFOを回収したとして有名なロズウェル事件のことになる。地元の新聞が伝えるところによると、UFOの機内から、奇妙な姿をした異星人の死体4体が発見され、その死体はワシントンのアンドリュース基地に移送されたという。また、レオナード・ストリングフィールドの『UFO墜落/回収シンドローム』(1978年)によると、回収された異星人の姿は人間によく似ているが、明らかに地球人ではない。身長1.4メートル、体重18キロ前後、人間の子どものようだが頭部が非常に大きい。手足は細長く、全体的に華奢。指は4本で親指がなく、水掻きをもっている。目は大きく、少しつり上がっている。耳はあるが、耳たぶがなく、口と鼻は小さくて、ほとんど目立たない。皮膚の色がグレイ(灰色)であるところから、UFO研究家は、この異星人を「グレイ」と呼ぶ。

 

・異星人グレイと河童を並べてみると、素人目にも、そこには多くの共通点を見出すことができるだろう。

まず、その身長。どちらも1メートル前後。人間のような恰好をしているが、頭部だけがアンバランスなほど大きい。

大きな目に、耳たぶのない耳、そして小さな鼻穴と、オリジナルの河童の顔は、どちらも4本なのだ!。

また、グレイの皮膚の色は、一般にグレイだが、ときには緑色をしているという報告もある。

河童の色は、やはり緑が主体。ただ、両生類ゆえに、皮膚はアマガエルのように保護色に変化することは十分考えられる。

1940年代のある日、米軍は極秘裏にある生物の捕獲作戦を展開し、4体の謎の生物を捕獲した。その生物は鼻が曲がるほど生臭く、キイーキイーと甲高い声を張り上げて、必死に暴れまわり、それがまた力強かったようである。米軍によって捕獲されたのは、ドーバーデーモン、すなわちアメリカに住む河童である。

・著者は結末部でこう述べている。はっきり断言しよう。グレイは異星人ではない!先に、河童はグレイであると述べた。だが、これは正確な表現ではない。グレイこそ河童なのだ。

・結局は、軍の元情報部とか名乗る怪しい人物からのリーク情報でしかない。逆に、そうしたリーク情報に登場する異星人は、きまってグレイなのだ。これらが意味することは、ひとつ。アメリカ軍は、組織的にUFO事件を演出している。捕獲した河童を異星人として演出しているのだ。

<河童の正体は?>

・平成8年(1996年)に発行された『ムー』の4月号に「異星人グレイの正体は河童だった!」が載っている。1947年(昭和22年)7月に、アメリカのニューメキシコ州で、墜落したUFOを回収した。これが有名なロズウェル事件で、この時に回収された異星人と思われる生き物の姿は人間によく似ているが、皮膚の色がグレイ(灰色)であるところから、UFO研究家はこれを「グレイ」と呼ぶようになった。

 先述のとおり、飛鳥昭雄と三神たけるは、この「グレイ」と「河童」とを結びつけ、『失われた異星人グレイ「河童」の謎』(学習研究社)を著しているが、その「第10章」を「「UMA河童」の正体は異星人グレイか!?」としている。

<平成13年(2001年)>

・この年の8月に、桜桃書房から、長尾誠夫の『神隠しの村―遠野物語異聞―』が出ている。この小説の粗筋は次のとおりである。

 大正58月、遠野で3人の子供が神隠しにあい、佐々木喜善の要請を受けて、柳田国男が遠野の里を訪れた。柳田は、遠野に着いた日、遠野の専売局に勤める牛山勇吉に「あんたは何もわかっちゃいない。山の神はいる。ザシキワラシも河童もオシラサマもな。あんたが書いた『遠野物語』はすべて事実なんだよ」といわれる。そして、その夜、柳田は旅館の平澤屋でザシキワラシを見た。

 同じ日、佐々木喜善は睡蓮沼で河童を見た。

 睡蓮沼のほとりで、喜善は瘧(おこり)のように身を震わせていた。あまりの衝撃と恐怖に口をきくことも身体を動かすこともできなかった。たった今見たもの……それはまさしく河童そのものであった。背の高さは喜善の肩ほどか、身体は泥まみれ、髪は海藻を張りつけたようで、頭頂部が禿げて瘤のように盛り上がっていた。鼻は潰れ、唇が上下とも膠状に固まっているため嘴のように見える。

2匹の河童は馬の後ろ足を握って、馬を淵の中へ引きいれようとしており、もう一匹は馬の背に乗って尻の部分に食いついていて、血がぽたぽたと垂れていた。

 村人たちは、鍬や鋤を振り上げて河童たちに向かうと、河童は馬から離れて「くわっ、くわっ、くわっ」と叫んで淵の中に飛び込んだ。

・高善旅館の二階で子供たちを救い出すための方策が検討され、経路、参加人員、持ち物、注意事項などが決められた。経路は早池峰裏詣の道筋を辿って、子供たちが消えた田代ヶ原へ向かい、裏詣道からはずれて七郎沢を遡行して“異人の村”に至る。

 捜索に出るのは、柳田国男、佐々木喜善、小学校の女教師・山中百合子、屈強な猟師4名、新聞記者の大森憲次郎、牛山勇吉、イヌカヒら異様な風体をした男たち3名、神隠しのあった子供の親である定吉と嘉兵衛、早池峰神社の宮司、町会議員の村下耕造の16名である。

・いよいよ裏詣道に入るのだ。ここから先は、通常の里人が入り込んだことのない“異界”である。しかも、柳田国男の話によると、異人が頻繁に往復しているという。喜善は身の引きしまるような思いで鳥居をくぐった。消失した3人の子供は果たして山の神・三面大黒にさらわれたのか?はたまた異人の仕業なのか?それに喜善らが見た河童の正体は?そして、柳田国男の活躍は?

<河童による町おこし>

・「河童の町づくり」は、「河童のふるさと」を自認する市や町の活動から始まった。岩手県遠野市は柳田国男の『遠野物語』で河童伝承が紹介され、世に広く知られていることから、古くから「河童のふるさと」として名乗りを上げ、宮城県加美郡色麻町は、この街に磯良神社(通称「おかっぱ様」)が鎮座し、河童伝説が伝わっていることから、ここも「河童のふるさと」をキャッチフレーズにし、「河童の本家」という言葉も使っている。

・民俗行事としての「かっぱ祭り」(水神祭)は古くから行われてきているが、観光行事としての「かっぱ祭り」の殆どは昭和の後半以後に始まったものである。その例は、北海道札幌市の定山渓温泉で毎年行われている「かっぱ祭り」で、その第一回は昭和40年(1965年)8月に行われている。

 小川芋銭の“ふるさと”であり、河童伝説でも有名な牛久市では、毎年7月の最終土・日曜日に「うしくかっぱ祭り」が行われているが、その第一回は昭和57年(1982年)である。

・その牛久市に、平成元年(1989年)に、河童の伝説や河童と縁のある全国13の市町村の首長らが集まって、「第一回全国河童ドン会議」(正式名称は「河童のふるさと創り全国連絡会議」)が開催された。

・河童の町として有名な福岡県の田主丸町(現、久留米市田主丸町)が本格的に河童の町おこしに取り組むようになったのは平成2年(1990年)からである。

 この町では、昭和30年(1955年)から「河童族」(正しくは「九千坊本山田主丸河童族」)という住民組織を中心に、地域住民による河童の町づくりを推進してきたが、「水と緑と河童のふるさと」をキャッチフレーズとして、行政が本格的に「河童の町づくり」に取り組んだのは、この事業を「ふるさと創生事業」として位置づけたからである。

・この町では、平成3年(1991年)度から、町内を9千体の河童像で埋め尽くすという「河童9千体設置事業」が始められ、JR田主丸駅ホームに高さ3メートルの巨大河童像、同駅前に「楽太郎河童」の像、田主丸中央公園に高さ2メートルの「巨瀬入道河童」の像、等々いたるところに河童像が建てられている。

・度々の洪水に悩まされてきた鹿児島県の菱刈町(現、伊佐市菱刈)は、川内川と、その水のシンボルである河童(この地方の呼称は「ガラッパ」)を逆手にとって「町づくり」に利用するというユニークな町である。

・さて、この「ひしかりガラッパ王国」は、大統領府として5機関の省庁があり、年齢別組織は、50歳以上の「おせガラッパ」が王国の目付け役として若者らへの助言や指導を行い、20歳から50歳までの「にせガラッパ」がイベントの企画や運営など王国の中心的な活動を行い、小中学生らを主とした「ちごガラッパ」は夏祭りなどの行事に参加することが主な役割である。

『河童物語』

本堂清  批評社 2015/10/25

<異界に生きる生物を具現化>

・人々は、古来から自然界の不思議な異変現象や畏怖の体験から、さまざまな想像上の禽獣、妖怪、守護神を数限りなく生み出してきた。

 なかでも、吉祥祈願のための龍や鳳凰、河童は、人間生活に根強く溶け込んでいる。

 とくに河童は、どじで間抜けで、意地がなく、悪さをして人に捕らえられると、勘弁してくださいと涙を流し、時には詫び状まで入れて、許されると、その恩義に感じて秘伝の薬事方法まで伝えたりする憎めない妖怪で、全国至るところによしみをもっている。

<河童と烏天狗>

・カッパと天狗仲間の烏天狗は、顔が似ているので、先祖は同じ仲間ではないかという者もいるようだ。

 たしかに両方とも、目が大きく、鼻が似ていて、頭もばさらである。だが天狗の目は、カッパがキョロキョロとしているのに対してギョロと鋭く怖い。

 それにカッパは、童形の水生動物であるのに対して、天狗は人間の変身であり、並はずれの神仙修業を積んだ者で、背に翼を持ち、大きなヤツデの団扇をあおいで、天空を駆けるなど、カッパの神通力とは比較にならない、融通無礙の呪術を会得している。

 カッパも飛翔することがあるが、これは春秋季に集団移動する時や、必要な集団行動に限り、飛ぶことができるという習性で、普通に天空に遊ぶことはできない。

 したがって、カッパと烏天狗は、空中と水中のように似ても似つかぬ生態なのである。

<河童とは>

・この世に「カッパなどいない」と、にべもなく否定する人がいる。確かに現代において、カッパはオカルト的な存在であり、カッパの存在は生物学的・科学的にも証明することは難しい。

 だが「実際に見た」とか「悪さをされた」という証言は古来から多く伝えられ、絵本などでも様々に描かれている。だから一概に「カッパは存在しない」ということにはためらいがある。

<河童像>

・カッパについて、いろいろ調べてみると、カッパの容姿についておおよそ次のようなスタイルが浮かんでくる。

 絵本に出てくるカッパは45歳の童子のようで、顔はトカゲに似ている。くちばしが尖り、身に堅い甲羅を背負い、手に水掻きがある。頭はオカッパでお皿を置いたように髪の毛がなく、ここに湿り気がなくなると途端に妖力が抜ける。だが、皮膚の下に厚い脂肪をたくわえているので、冬でも裸でいられるのである。

 川の深みや沼、水神様が祀られている水辺近くに棲んで、仲間同士で相撲を取ったりしているが、時には、人や馬を水中に引き込むという悪さをしたりする。

・日本国にカッパは、数十万匹居ると言われているが、不思議なことに彼等は体を小さく変体させて、馬のひずめ跡の水溜りでも、千匹棲めるという妖怪である。

<河童忌>

724日は、小説家芥川龍之介の命日で代表作「河童」に因んで「河童忌」となづけられている。

 河童を題材とする本はこれまでわんさと出ている。それだけに人とカッパの関わり深さがわかる。

 火野葦平も長編小説「河童」のなかで、多くの有名人が描いた河童想像画を挿絵に飾って、カッパの生態を怪しく書いている。

 画家や彫刻家たちも、思い思いのカッパ像を表現してきている。しかし小川芋銭の河童画に勝るものはない。芋銭は実際にカッパを見たと言っているので、独特な画風と相俟って迫真の河童像が描けたのである。

<河童守護神  罔象女水神>

・罔象女水神(ミズハノメノカミ)は水神様で、カッパが崇拝する守護神である。『古事記』では、「弥都波能売神」と表記されている、日本の神話に登場する代表的な水神である。天照大神の母であるイザナギの命が、火の神であるカグツチを生んだとき、ホト(陰部)を火傷してしまった。

 その苦しみで、思わず失禁し、尿からミズハノメを産んで死んだのである。

 それでミズハノメは火を鎮める水の神となった。その容姿は小児のような小神であったという。

 また一説ではミズハノメとは、水神に使える妻という意味もあるという。さらに、中国の文献では龍や小児の姿をした水の精であるといわれている。

 さらにまた「カッパは小神の零落したかたち」という伝説もあってカッパ妖怪伝説の由来ともなっている。

<河童総元締 九千坊>

・日本国に潜在するカッパは数万といわれている。その総元締は、九州は球磨川に棲んで、九州一帯に勢力を広げ、九千匹の子分を配下に収めていた九千坊ということになっている。

 九千坊は先祖代々襲名で、カッパ族の象徴的存在である。カッパ族は九州高千穂から全国に扶植したもののいわれて、誰からも支配されたり、統率されることはない。

 だからどこに棲んでいても、カッパ族にはシチ面倒くさい作法とか親分・子分といった角張った階級格差などは存在しない。

 だが、由緒正しいカッパ族の誇りと秩序を守るために、全国的な節制組織がある。

 その頂点に立っているのが九千坊である。だが彼は決してカッパ族の統率者ではない、名誉総裁として敬愛されているのである。

<九千坊の女房 ポンポコ>

・九千坊の女房ポンポコカッパは、豊前国の立川地方を縄張りとする六助カッパの一人娘で、美貌に似つかわしくなく、男まさりの喧嘩好きで、父親の六助に変わって豊前一帯の縄張りを支配していたので、あまり評判の良くない女親分であった。

 そのころ、筑後川に拠点を移していた九千坊は、玄界灘から周防灘、日向灘の西海地方を圏域とする、カッパ族の生きる宗家として、隠然たる信頼と権威を保っていた。だが、まだその頃は九千坊とは言わずにカッパの宗家西海家を継承し、西海坊と呼ばれていた。

<河童譚>

・カッパの元祖についてはいろいろな説がある。九州は球磨川河口の八代市に「河童渡来之碑」が建っている。

 それによれば今から223百年前、秦の始皇帝に仕えた方士(不老長生法など神仙術に長けた仙人)徐福が、東海の彼方にあるという不老不死の仙薬採取を命じられた。徐福は蓬莱山への航海にあたって、皇帝から与えられた良家の少年少女3000人と、金銀珠玉と五穀と機材を積んで旅立ったという。

 だが徐福の大船は日本に漂泊して本国へ帰還しなかった。

 この頃中国方面から漢民族に滅ぼされた多くの漂流民が日本に渡来してきた。この時中国黄河を本拠地としていたカッパ一族が、海を渡ってきて、球磨川に棲みつき、繁殖して九千匹にもなった。これの族長が九千坊であるという。このカッパ族は全国に伝播していき、カッパ、かわわっぱ、川伯、河童またはヒョウスベ、ガタロウなどと呼ばれるようになった。

 またカッパの故郷は、九州高千穂という説もある。邪馬台国の女王卑弥呼(天照大神)の孫が国造りのために天孫降臨したところである。カッパの先祖は、その時お供して来た、神の子の子孫という伝承もある。

・またヒョウスベという呼び名は、カッパがあなたこなたへ移動するとき、ヒョウヒョウと声を鳴らしながら行くので、その名で呼ばれるのだともいう。つまりカッパはカラス天狗のように飛翔することもできるのである。

<人と河童のDNAは同じ>

・その態様はまことに奇怪で、身に衣を着けず、裸体で、身を保護するためか、背には亀の甲羅のようなものを背負っていた。人間でもなく、魚類でもない奇態な小動物を、中国人は水虎とか河伯と呼んでいた。

 やがて奇態な格好をした彼等は日本にも現れて、妖怪カッパとしての伝説を広めていくのである。

<河童のパラダイス西海道>

・九州はカッパ発祥の地といわれているだけあって、カッパ集団が九州全域に割拠している。

 もちろん筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、薩摩、大隅、日向の西海道は、カッパの宗家九千坊一家の領域である。

 筑前、豊前には、壇の浦の戦いで源氏に敗れた、平家の武将平教経の奥方で、カッパに化身した海御前を守護神に祀って結束しているカッパがいる。この平家カッパの領域も九千坊の領域である。

 日向地方には、高千穂付近の五ヶ瀬川支流の一つに七折川に、瀬の弥十郎グループが、山裏に右衛門グループ、押方の二上川には神橋の久太郎グループなどがいる。

<海御前を祀る平家>

・北九州市門司区の大積には天疫神社があり、そこに海御前の墓がある。

 海御前は寿永4年(1185)の源平最後の合戦を、檀の浦でたたかったが、平家は敗れて西海の海の底深く沈んだ。この戦いで、源氏の大将判官九郎義経の八隻飛びを、寸前のところで捕えようとしながらも取り逃がした、平家の大将能登守教経の妻が、カッパに化身したのが海御前である。

 教経は矢に当たって落水し、妻も入水して流されているところを郎党に引揚げられて、大積の地に葬られた。郎党たちは門司周辺に住み、西海のカッパに化身したとされる。

 この平家の郎党は、海御前の霊を守護神として祀り、毎年平家の命日である旧324日には、平家一族の誇りと結束を強め、瀬戸の海に眠る祖先の霊を慰めている。

『河童を見た人びと』 

 (高橋貞子)(岩田書院)  2003/6

<「河童を見た人びと」の舞台は、岩手県下閉伊郡岩泉町です>

「河童を見た人びと」の舞台は、岩手県下閉伊郡岩泉町です。岩泉町は、香川県一県に匹敵する日本一広い面積をもち、総面積の93%を林野が占めています。豊かな森と水を背景に、岩泉町の人々は河童ばなしを豊かに語り継いでいました。半世紀前の人々が見たり聞いたりした岩泉河童ばなしを掘り起こして、ひたむきに書き留めて羅列して一冊になりました。

<ミカン色の皿を被ったカッパを見た>

・昭和13年(1938)、キクさんたちは小学校の4年生でした。ある日、学校の帰途に舟木沢の滝の渕を覗きますと。美しいミカン色の皿が浮かんでいました。

よく見ると、ミカン色の皿の周りには、肌色に縁取られていました。やがてカッパが浮かび上がり、胸の辺りまで体を現しました。カッパは肩の落ちた撫肩の体形でした。

その体の色の美しいこと、表現の言葉がみつからないといいます。水に濡れていた所為と思いますが、サンマなどの光り魚のようだった、と言い表すのが一番近いでしょうと、キクさんは語りました。

『アラマタ大事典』

監修:荒又宏   講談社    2007/7/13

<河童の正体  実在した生物だった!?>

・妖怪には興味のない人も、河童の名前は聞いたことがあるだろう。頭には皿があり、手足には水かき、背中には甲羅があるという妖怪だ。キュウリが大好物で、人間と相撲をとったり田植えを手伝ったりすると聞けば、いい妖怪のイメージだ。でも、川で泳いでいる子どもの足をひっぱって、おぼれさせることもあるというから、意外と乱暴でもある。

 この河童、完全な想像上の生物ではなく、モデルとなる生物がいるのでは、と昔からいわれていきた。いちばん可能性が高いとされているのが、「カワウソ」である。カワウソというのは水辺にすむイタチの仲間で、日本には昔、「ニホンカワウソ」というカワウソが全国各地にすんでいた。

・また、川で遊んでいて足がつったり、おぼれた人を見て、「きっと、水辺に立っていたやつが、水中から足を引っぱったにちがいない」ということで、少しずつ河童という妖怪がつくられていった可能性が高い。

・「河童という生物は本当に存在していたのでは?」という、かわった説もある。カナダのデール・ラッセルという学者が、もし恐竜が絶滅せずにそのまま進化していたらどうなったかと考え、脳が大きく、体長2mほどの「トロオドン」という恐竜をもとにシミュレーションした。その結果からえがかれた「ディノサウロイド」という恐竜人間の想像図は、頭が小さく目が大きく、口がとがっていて指が長い。そのすがたはじつに、河童によくにているのだ。ひょっとすると河童は、恐竜が進化した生物の数少ない生き残りだったのかもしれない。

『知っておきたい伝説の魔族・妖族・神族』

健部伸明  監修   西東社    2008/12

<河童(日本伝承)アジア起源の水の妖怪 水の妖精>

<各地に残る河童伝説>

・河童は日本の伝承に現れる水の妖怪で、その奇妙な姿が各地で目撃されている。一般的には、川や沼、渕などに生息し、体長は13メートル、顔はカエルに似て、長い鼻があり、手には水掻きと鉤爪がついている。肌は緑色で背中には甲羅がある。頭のてっぺんにある浅いくぼみ(皿)が特徴だが、実はこれは河童の弱点でもある。これが濡れている間は怪力だが、乾いてくると生きていけなくなるほど弱々しくなってしまう。したがってもし河童を撃退したいなら、低くおじぎをするとよい。河童はおじぎをされたら必ず返さないとならないらしく、くぼみの水がこぼれ落ちてしまうのだ。

・河童の起源を遡ってみると、720年に完成した『日本書紀』には皇極天皇元年七月の条に、百済の使者が渡来した後に「河伯に雨乞いをしたが、効果がなかった」との記述があった。河伯は中国の河の神で、日本に伝わった際に、河童の原型になったのではないかと考えられる。また、熊本県にある「河童渡来碑」は、5世紀前半に建てられたものだともいわれており、河童伝説が古くから日本に根付いていたことが分かる。いい伝えによると、中国の唐に棲んでいた河童たちが移住を決意し、日本海を渡って九州地方に棲みついたそうだ。その一族は、一時は9千匹にも増えたという。

<大好物は人間の肝>

・河童は水辺に棲み、よく人間を水の中に引きずり込んだ。そのためかつては、子供が水に溺れて死んでしまうのは河童の仕業であると考えられた。河童は人間の尻子玉(肛門内にある架空の臓器)を抜いて、好物の魂や肝を喰らう。これは人間の生命の源であるから、抜かれてしまうと一溜まりもない。水死者の肛門が開いているのは、尻子玉が抜かれているからだそうだ。

・人間の姿に化けて誘い込もうとしたこともあった。あるとき、老人が田んぼの用水路に立っていると、小僧が現れて「用水路の中に入れ」という。怪しんだ老人がこれを拒否すると、小僧は河童に変化して水中に消えてしまったそうだ。

<秘薬を伝授した河童>

・水の妖精でもある河童は、ときに赦免のために、秘薬の調合法を伝授することがあった。河童は水の住人なだけに、金気を嫌う。故にこの秘薬は金属による傷によく効いた。また、相撲好きな性格のため関節を挫くことも多く、骨折治療術にも長けていた。


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by karasusan | 2016-08-04 18:01 | その他 | Comments(0)