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裁判所も貴重な取材現場のひとつだ。一般メディアで報じられる機会は少ないが、実は東京地方裁判所だけでも、いつも何かしらのカルトの被害をめぐる裁判が進行している。(2)

1417年、その一冊がすべてを変えた』

スティーヴン・グリーンブラット     柏書房  2012/11

<物事のありよう>

・『物の本質について』は読みやすい作品ではない。全部で7400行のヘクサメトロス(六歩格詩)で書かれている。

・ルクレティウスがもたらした疫病の一つの簡潔な名前――彼の詩がふたたび読まれはじめたとき、たびたび向けられた非難の言葉――は、無神論である。だが、じつはルクレティウスは無神論者ではなかった。神々は存在すると信じていた。しかし、神々は神々であるがゆえに、人間や人間のすることにはまったく関心がない、とも信じていた。神はまさに神であるがゆえに、永遠の生命と平和を享受し、その生命と平和が苦悩や不安によって損なわれることはなく、人間の行為など神にとってはどうでもよいことだ、とルクレティウスは思っていた。

ルクレティウスは信仰を告白しているが、本当はある種の無神論者、おそらく、とりわけ皮肉屋の無神論者だった、と言うことは可能である。

・今では『物の本質について』で主張されている宇宙に関する事柄の多くは、少なくとも今この本を読んでいそうな人々の間では、ひじょうによく知られていることのようだ。

<ルクレティウスが投げかけた難題を構成する要素>

・(万物は目に見えない粒子でできている。)

専門用語を嫌ったルクレティウスは、これらの基本となる粒子をあらわすギリシア哲学用語で、それ以上分割できないものという意味の「アトム(原子)」を使わないことにした。

・(物質の基本となる粒子――「事物の種子」――は永遠である。)

時間は限界を持たず――始まりと終わりのある不連続の物質ではなく―ー無限である。星々から最も下等な昆虫まで、全宇宙は目に見えない粒子でできている。これらの粒子は破壊不可能であり、不滅である。

・ハーヴァード大学の哲学者でスぺイン生まれのジョージ・サンタヤーナはこの考え方――破壊不可能な物質からなる事物の絶え間ない変化――を「人類がこれまでに思いついた最も偉大な思想」と呼んだ。

・(基本となる粒子の数は無限であるが、形や大きさには制限がある。)

個々のものを組み合わせることによってさまざまな文章を作ることができるアルファベットの文字に似ている。

・(すべての粒子は無限の真空の中で動いている。)

空間には、時間と同様、限界がない。固定された点ではなく、始まりも、中間も、終わりもなく、限界もない。物質はぎゅうぎゅうに押し固められた緻密な固体ではない。事物の中には真空があり、構成要素である粒子が動き、衝突し、結合し、分離できるようになっている。

・(宇宙には創造者も設計者もいない。)

粒子そのものは作られたものではなく、破壊することはできない。この世の秩序と無秩序のくりかえしは、いかなる神の計画の産物でもない。神の摂理は幻想である。

・存在には終りも目的もない。絶え間ない創造と破壊があるのみで、すべては偶然に支配されている。

・(万物は逸脱の結果として生まれる。)

無数に存在する個々の粒子がすべて、自身の重さに引っぱられる雨粒のように、真空中をまっすぐ落下していくとすれば、何物も存在しないだろう。しかし粒子は、あらかじめ定められた一方向に密集して動くのではない。代わりに。「まったく予測できない時間と場所で、直線の進路からわずかにそれる。それは、動きの変化にすぎない、と言える程度である」。ゆえに、基本となる粒子の位置は確定できない。

・(逸脱は自由意志の源である。)

人間も動物も、すべての感覚のある生き物の生活では、基本となる粒子の不規則な逸脱が自由意志の存在をもたらす。

・(自然は絶えず実験をくりかえしている。)

始まりの瞬間とか、神話的な創造の場面などというものはいっさい存在しない。植物、昆虫から高等哺乳動物、人間まで、すべての生き物は、長く複雑な試行錯誤のプロセスを経て進化してきた。

・(宇宙は人間のために、あるいは人間を中心に創造されたのではない。)

この世界には海や砂漠があり、過酷な気候があり、野生動物がおり、病気がある。ゆえにこの世界がとくにわれわれ人類が快適に暮らすために創られたのではないことは明らかだ。

・(人間は唯一無二の特別な存在ではない。)

もっとずっと大きな物質的プロセスの一部にすぎない。このプロセスを通じて人間はあらゆる生命体だけでなく、無機物質ともつながっている。人間を含むあらゆる生物を構成する目に見えない粒子は、感覚を持っていないし、何か神秘的な源から生まれたわけでもない。われわれ人間は、他のあらゆるものを構成しているのと同じ物質でできているのだ。

・(人間社会は平和で豊かな黄金時代に始まったのではなく、生き残りをかけた原始の戦いの中で始まった。)

一部の人間が夢想してきたような、平和を好む幸福な人々が、安心してのんびりと暮らし、豊かな自然の果実を享受していた楽園のような原始時代などは存在しなかった。初期の人類には火も、農耕技術もなく、その他、情け容赦ない生活の過酷さを和らげる手段がなかったので、誰もが食うため、食われないための闘争をくりひろげてきた。

・(霊魂は滅びる。)

人の魂は肉体と同じ物質でできている。魂がどの臓器に宿っているか、物理的にその場所を特定できないという事実は、魂がひじょうに微細な粒子でできており、血管、筋肉、腱などに点在していることを意味するにすぎない。われわれの計測器は魂の重さを量れるほど精密ではない。

・(死後の世界は存在しない

人間は、自分が死んだ後には何かが待っていると考えて、自らを慰めたり、悩ませたりしている。死後の世界の楽園では永遠に枯れない花が咲き乱れていて、冷たい風は吹かない、と想像したり、厳しい裁判官の前に連れていかれ、罪を責められ、終わりのない苦しみを言いわたされる、と想像したりする。しかし、ひとたび肉体とともに魂も滅びるとわかれば、死後の罪や褒美などないこともわかる人間の命はこの世の命だけである。

・(われわれにとって死は何ものでもない。)

あなたが死ぬとき、――一つにつながって、あなたを創り、維持していた粒子がばらばらになるとき――喜びも悲しみも、願望も恐怖もなくなる。ルクレティウスは書いている。

・(組織化された宗教はすべて迷信的な妄想である。)

その妄想は、深く根づいた願望、恐怖、無知に基づいている。人間は、自分たちが持ちたいと思っている力と美しさと完全なる安心のイメージを作りあげている。そのイメージに従って神々をこしらえ、自分の夢の奴隷となっている。

・(宗教はつねに残酷である。)

宗教はいつも希望と愛を約束するが、その深層にある基礎構造は残酷さだ。

・(天使も、悪魔も、幽霊も存在しない。)

いかなる種類であれ、非物質的な霊は存在しない。ギリシアやローマの人々の想像力がこの世に生み出した生き物たち――運命の三女神、ハルピュイア、ダイモン、守り神、ニンフ、サテュロス、ドリュアス、天使、死者の霊――はまったく架空のものだ。そんなものは忘れるべきである。

・(人生の最高の目標は、喜びを高め、苦しみを減ずることである。)

幸福の追求に向けて人生を整えるべきである。自分自身や仲間のために幸福の追求を推進することほど、倫理的に高い目的はない。

・(喜びにとって最大の障害は苦しみではなく、妄想である。)

人間の幸福の第一の敵は過度の欲求――限りあるこの世で許される以上のことを達成したいという幻想――そして心をさいなむ恐れである。

・(物の本質を理解することは、深い驚きを生み出す。)

宇宙は原子と真空だけで構成され、ほかには何もない。世界は天の創造者がわれわれのために創ったものではない。われわれは宇宙の中心ではない。われわれの感情生活も、肉体生活も、他の生き物たちのそれと異ならない。われわれの魂は肉体と同様、物質的なものであり、死ぬべき運命にある。

<解説  池上俊一>

・古代ローマの詩人ルクレティウスと15世紀のイタリアの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニ。西洋文学史・思想史上の重要人物であることはたしかだが、プラトンやアリストテレス、あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチなどとは違い、おそらく専門家以外ほとんど知られていない二人だろう。

・ルクレティウスは、紀元前1世紀初頭に生まれ、前55年頃死去したラテン詩人だが、その生涯はほとんどわかっていない。ギリシャの哲人エピクロスの教えを忠実に伝えようとした長詩『物の本質について』でのみ有名である。エピクロスの原子論的な自然学というのは、宇宙に存在する万物はそれ以上分割できない原子と何もない空間から成っており、無限にある原子が無窮の空間を運動しながら互いに衝突・結合することによって物質が構成されると説く。

本書『1417年、その一冊がすべてを変えた』で論じられるのは、だからオリジナルな思想の継受と発展の物語ではない。そうではなく、千数百年間すっかり忘却されていたエピクロス主義の紹介者ルクレティウスと、ブックハンターとしてのポッジョとの遭遇がテーマである。いわば思想の媒介者・紹介者としての二人が、たまたま出会うにいたった不思議な経緯の物語である。それなら大したことでもない、と思われるかもしれない。

『地球人は科学的に創造された』

クロード・ボリロン・ラエル  ラエリアン・ムーブメント e-book

<エロヒムと名乗る人々は遺伝子工学とDNA合成技術を使って人類を含む地球上の全生命を実験室で科学的にデザインし創造しました>

・若いカーレーサーだった「ラエル」にとっては、F1レースを制することが唯一のゴールでした。27歳頃までには既に、フランス国内のメジャーなモータースポーツ雑誌の出版社を設立していました。しかし、1973年12月13日に、彼の人生は180度、変わりました。フランスのクレルモン・フェランの近くに位置する火山のクレータで、直径7メートルの、とても光沢のある、銀色の金属で出来たUFOが、音もなく移動して来るのを目撃したのです。真実に光が当てられました。ラエルは、人類の起源を明らかにする真実のメッセージを託されました。

・他の惑星よりやってきたエロヒムと名乗る人々は、遺伝子工学とDNA合成技術を使って、人類を含む地球上の全生命を、実験室で科学的にデザインし創造しました。彼らの生命創造の痕跡は、世界中の全ての古代宗教文献に残されています。その一例として、世界最古の無神論の宗教である聖書があげられます。というのは、古代ヘブライ語で書かれている聖書原典には、「エロヒム」という言葉が書かれていますが、これはのちに「神」と誤訳されてしまいました。この語源をたどると、「エロヒム」は「天空より飛来した人々」という意味になり、複数形の名詞になります。エロヒムはラエルに、この革命的な真実のメッセージの世界普及と、エロヒムを公式に地球に迎えるための大使館建設の使命を授けました。

<神も霊魂も存在しない>

・最初のメッセージで説明したように、神は存在せず、また明らかに霊魂も存在しません。死んだあとは、科学が何らかの介入をしない限りは、何も残らないのです。あなたもご存知のように、人間の各細胞には、その人を構成している肉体および知性に関する設計図が入っていて、その人の細胞1個から、死んだその人を再生することができます。

 また、人間の体重は、死の瞬間に数グラム減ることが確認されていますが、実はこれは、生きている人間ならば誰でも持っているエネルギーが、死の瞬間に消滅することを意味しているにすぎません。ご存知のように、エネルギーにも物質と同じような重さがあるのです。

 私たちは、無限に小さな世界にも知性を備え、有機的な身体を持った生命が存在することを発見しました。彼らが私たちと同じ程度に進歩した生物であり、私たちに匹敵する存在であることは証明済みで、まず間違いありません。

・従って、恒星や惑星は、あるひとつの巨大な存在の微粒子であることも発見しました。きっと、この巨大な存在は、他の星の群れを好奇の目で眺めているのです。また、無限に大きな生物の中の、無限に小さな部分に存在する生物やその同類が、非物質的な「神様」を信じていた時代もきっとあったでしょう。

・あらゆる物は、他のあらゆる物の中に存在していることを、あながたは十分に理解しなければなりません。今この瞬間にも、あなたの腕の中の1つの原子の中では、「神」や霊魂の存在を信じる世界や信じない世界が、何百万と生まれては死んでいっています。1000年という時の流れも、太陽が1個の原子にすぎないような巨大な存在にとっては、たった1歩を踏み出す時間でしかないのです。

・神や霊魂の存在を支持しようとする、いかなる議論も、宇宙が無限であることを考える時、その立脚点を失います。天国なるものが、宇宙のある特定の場所に存在することはあり得ません。というのも宇宙は無限なのですから、その中心もありません。無限大の存在と無限小の存在との宇宙の間では、質量の違いが大きすぎて、相対する時間の流れは全く違ったものとなっていますので、一切のコミュニケーションは成立し得ません。

『宇宙人遭遇への扉』 

(リサ・ロイヤル&キース・ブリースト)

(ネオ・デルフィ社) 2006/2

<琴座は地球が存在する銀河系宇宙の領域における、人間型生命体の発祥地である>

<銀河系宇宙共同体>

・エネルギーのレベル、あるいは物質のレベルで、地球の発展とかかわりを持つ、物質的および非物質的な宇宙人の各種族を指す。琴座の各種族、シリウス人、プレアデス人、ゼータ・レチクル人、オリオン人を始めとして、本書で述べられていない多数の宇宙人種が、銀河系宇宙の一族を構成している。

<ヒューマノイド>

・肉体的な特徴が地球人と似ている宇宙人を指す。ヒューマノイド(人間型宇宙人―地球人もこれに含まれる)の血統上の起源は琴座に求められる。

<琴座>

地球上には琴座に関する神話が古くから残されてきた。なかには琴座とプレアデス星団との関係について述べたものもある。琴座は地球が存在する銀河系宇宙の領域における、人間型生命体の発祥地である。シリウス人、オリオン人、地球人、プレアデス人、ベガ人、ゼータ・レチクル人、ケンタウルス人、アルタイル人を含むさまざまな宇宙人は、すべて琴座で発生した種族の子孫である。

<ベガ>

・琴座の一等星で、琴座にありながらその中のどの星系よりも距離的には地球に近い。琴座の中で、統一性がある独自の文明を形成した最初の星の一つである。アルタイル、ケンタウルス、シリウス、オリオンなどを始めとして、ベガ人が人種の創成や入植を行った星系は多数ある。

<アストラル・プロジェクション>

・「星気体の投射」の意。西洋神秘学によれば、「星気体」(アストラル体)とは、肉体よりも精妙な周波数からなり、通常は肉体と重なり合って存在する「身体」のことである。ある種の人々は意志の力によって、この「身体」を外部に投射でき、通常の感覚を保ったままで、これを通して旅をすることができる。

『何かが空を飛んでいる』

稲生平太郎     国書刊行会   2013/11/25

<異界の言葉―テオドール・フルールノワ『インドから火星へ』>

・たとえば、1895年夏には、アメリカの霊媒スミード夫人の許に、死者の霊を通して火星の住民に関する啓示が届いた。いっぽう、それを少し遡る1894年暮れ、大西洋を隔てたスイス、レマン湖畔でも、カトリーヌ・ミュレルという名の女性が、火星からの詳細な通信を受けはじめた・・・。

・そして彼が1894年に出会った霊媒こそカトリーヌ・ミュレルにほかならず、フル-ルノワは以降5年に及ぶ詳細な研究を経て、その成果を『インドから火星へ』として世に問うたのである。

・ミュレルは当時30代前半で昼間はジュネーヴの大きな商店に勤務していた。彼女のプライヴァシーを考慮して『インドから火星へ』ではエレーヌ・スミスなる仮名が用いられており、今ではその名前のほうで知られているから、ここでも以下彼女をエレーヌと呼ぶことにしよう。

・霊媒としてのエレーヌを特徴づけているのは、ひとえに彼女―もしくは彼女に憑依する霊たちーの紡ぎ出す『物語』に他ならない。それは簡単にいえば、長大な転生譚である。すなわち、彼女は15世紀にあってはインドの土豪シヴルーカの王妃、18世紀においてマリー・アントワネットであった。そして、彼女の指導霊レオポールトとは、実は仏国王妃の愛人、かのカリオストロであり、いっぽう、フルールノワ教授も観察者の位置にとどまることを許されず、シヴルーカの生まれ変わりの役を振り当てられた。容易に想像がつくように、フルールノワとエレーヌの間に、精神分析医と患者に発生する共感現象が起こっていたのは疑えない。

そして、火星。彼女の霊魂は地球の軛を離れて火星にも転生したのであり、火星の住民、自然、風景などの描写がやがて交霊会の席上にもたらされるようになった。それはあるときは言葉によってであり、あるときは絵画によってである。

 もちろん、こういった複数の生(フルールノワはこれらをそれぞれヒンドゥー物語群、王妃物語群、火星物語群と呼ぶ)をめぐる通信は、エレーヌとその信奉者にとっては紛れもない事実としてうけとめられた。

<私を涅槃に連れていって>

・そういうわけで、本章では、空飛ぶ円盤の世界のなかでも最もいかがわしく、かつ生臭いUFOカルトに焦点をあてることにしよう。

・UFOカルト、あるいは宇宙人カルトという言葉は、普通の人にはおそらく馴染みがないでしょう。ただし、実際には、円盤をめぐる運動のなかではこれが社会的にも最も影響力が強いんだよね。ともかく、具体的な例からまず挙げてみようか。

・たとえば、1980年に発足した「日本ラエリアン・ムーブメント」-この団体はフリーセックスを教義のひとつとしているためにマスコミで騒がれたりしたが、本質的には、世界中に数多ある典型的なUFOカルトのひとつである。「教祖」はクロード・ボリロン・ラエルと名乗るフランス人で、彼は1973年にUFOに乗ってきた宇宙人と接触、宇宙人と人類についての「真理」を告げられて、「ラエリアン・ムーヴメント」を興し、現在、日本を含めて世界中で約3万人の信者を従えている。

・ラエルによれば、人類を地球上に創造したのは彼方から飛来した宇宙人たち(エロヒムと呼ばれる)であり、聖書とはその事実を記述したものに他ならない。25千年前の創造以来人類を見守ってきた宇宙人たちは、現在ラエルを自分たちのメッセンジャーとして用いているのだが、破滅に瀕した世界を救うためにはエロヒムを地球に再度迎え入れねばならない・・・。

 どっかで聞いたような話のような気がしますが、実はそのとおりで、基本的には昔からある話です。陽の下に新しきものなしって言うけれど、僕たち人間は大昔から同じ話に聞きほれてきて飽きない動物なんだ。

・こうして熱狂的なコンタクティ・ブームが始まり、彼らの周囲に集まった人々はカルトを形成して、UFOカルトの第一次黄金時代が現出したのである。外来文明の受容の素早さには定評のある我が国にも昭和30年代全般にこのブームは波及、イギリスのコンタクティ、ジョージ・キングの創設したカルトの日本支部があっという間にできているし、「宇宙友好協会(CBA)」という世界に誇るべき(?)カルトも形成された。CBAはその行動性、熱狂性で群を抜いており、地軸がもうすぐ傾いて世界は破滅、異星人の宇宙船に乗っけてもらって助かるんだという「教義」のゆえに、悲喜劇が展開することとなった。

なお、三島由紀夫の怪作『美しい星』は、CBAのことを知らないと理解できない部分が多いので要注意。そうそう、CBAといえば、僕には個人的な思い出がある。僕が70年代の円盤ムーヴメントに足を突っ込んでたことは話したよね。で、その頃CBAなんて幻の団体というか、とっくの昔に潰れてると最初思ったんだけれど、ところがどっこい、円盤の裏の世界で依然として精力的な活動を続けているのを目撃して、驚いてしまった。このへん、ほんまにやばいような気もするので、詳しく語るのはやめにしよう。

『口語訳・遠野物語』 

(柳田國男) (河出書房新社)  1992/7

<さらわれた娘(上郷村)>

上郷村の民家の娘が、栗を拾いに山に入ったまま、とうとう帰って来ないことがありました。いくら待っても待っても帰ってこないものですから、家の人たちもついに諦めてしまいました。しかたなく、かわいい娘がいつもしていた枕を娘の身代わりにして、泣く泣く葬式を出しました。そして、いつの間にか23年たってしまいました。

ところがある日、同じ村の人が猟をしに古葉山の中腹に入ったときのことです。遠くからは気がつきませんが、大きな岩がおおいかぶさって、その下が洞窟のようになったところで、思いがけず、この娘とばったり出会ったのです。

二人は互いにびっくりして、しばらくは声も出ませんでした。が、猟師が尋ねました。

「ほだら、おめえはなにしてこんたな山の中にいるんだべ・・・・」

「栗拾いに山の中に入ったところ、とってもおっかない人にさらわれで、気がついだら、こんなどこにいたったのす。なんども逃げて帰りたいと思ったども、少しもすきを見せない人だから・・・」と、娘は青い顔で答えます。

「それでは、そのおっかない人って、どんたな人なんだべ」と猟師がたずねますと、「私には、普通の人間と変わりなく見えるどもなす。ただ、背丈はとても高くて、眼がきつくて、恐ろしいときがあるのす。私は子供を何人も生んだども『この子供は、おれに似てないから、おれの子ではない』と言って、どごさか連れでがれでしまったのす。まんず、食うんだが、殺すんだがわがんねども・・・」

「その人は、ほんとうに、おらと同じ人間なんだべが・・・」と猟師がかさねて尋ねますと、「着ている着物などを見ても、普通の人と変わりねえども・・・。そういえば、眼の色が違っているなす。市日と市日の間に、1回か2回、同じような大きな人たちが、45人集まって来て、なにが、べらくら話をして、どごさか出かけるようだっけなす。食物など、外から持ってくるどごをみれば、町にも出かけるんでねえすか」と娘が言ったあと、「あや、こんなごどいっているうちにも、あの人、帰って来るかもしれぬ・・・」と、おびえたようすで、あたりをきょろきょろ見回し始めました。

この猟師も急に恐ろしくなり、あわてて逃げ帰ったということです。いまから、せいぜい20年くらい前のことだと思われます。

<人さらい>

遠野の里に住む人々の子女で、異人にさらわれていく人は、毎年多くありました。ことに女の人に多かったということです。

図解雑学 『世界の天使と悪魔』

 藤巻一保  ナツメ社   2009/9/5

<天使と悪魔の世界は広大だ>

・天使という存在は、狭い意味では「アブラハムの宗教」(ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教)に登場し、神のお告げをもたらしたり、神の軍団として悪の勢力と戦ったりしている「神の御使い」を指す。

・たとえば仏教から発した密教では、天地宇宙のすべては大日如来から派生したとし、大日如来以外のすべての仏菩薩や神々は、みな大日如来の化身とみなす。また、『法華経』では、一切の仏菩薩や神々は、唯一絶対の釈迦如来の分身・分流だと説いている。この考え方に立てば、根源仏(天地宇宙の源である大日如来、ないしは釈迦如来)の分身として宇宙に現れ、根源仏の理想とする仏国土を創出するために働いている仏神は、みな天使とみなすこともできる。

・もっともアブラハムの宗教やイランのゾロアスター教などでは、一方で悪を独立した原理のようにとらえてもきた。宇宙史や人類史とは「神=光」と「悪魔=闇」の闘争史であり、最後には悪が滅ぼされて神の国が実現するという考え方だ。これに対し、仏教や神道などは、まったく違う考え方をする。魔は存在するが、絶対的な魔や悪があるとは考えていない。神の働きのうちの一部が、ときに悪魔的な相貌をとるだけなのである。

<天狗、是害坊   人を超える力を得た山の使い>

<当初は仏教を守護する存在だった>

・はじめは箒星のような異常現象を天狗(アマツキツネ)と呼んだ(『日本書紀』)。平安期には護法童子、金剛童子と呼ばれる仏法守護の童子が天狗とされた。

・今日のように山神であるとか国津神の使徒で、その姿が山伏姿となるのは、中世以降である。山に籠った山伏が、人を超える験力を得て山神と合一するという修験の概念が天狗の属性と重なり、山伏=天狗のイメージが定着したためだ。

<中国からきた天狗、是害坊>

・中世の絵巻、『是害坊絵詞』には、中国から渡ってきた是害坊と呼ばれる魔天狗が、わが国の魔王尊天狗の拠点である愛宕山にわたり悪業を重ね、比叡山の僧侶の法力によって封じられる様が描かれている。

<山岳信仰と天狗>

・天狗は山伏姿で赤ら顔、鳥のクチバシで表現されることが多い。本来は中国渡来の魔物である天狗だが、山岳信仰を主なものとする修験道の影響を受け、次第に土着の山の神と化していった。

堕天使 悪に染まった天使たち

<堕天使とは何か>

・堕天使とは、堕落した天使、天上世界から落下した天使たちの総称だが、さて、堕落とは何だろうか?堕落の内実として考えられてきたものには大きく分けて2つある。1つは人間の女への欲情で、『エノク書』に説かれた。もう1つは神からの離反である。離反説には、自由意志によって神から物理的に離れて落ちた(自然落下に近い)、自由意志によって愛を優先したという2つの理由が考えられている。自己愛は驕りや嫉妬を生み、アダム、イエス、さらには神自身もを敵と見なすようになる。このような堕天使が悪魔と同一視されるようになっていく。

<悪の原因としての堕天使>

・なぜ天使が堕落せねばならなかったのか?歴史的に考えれば、ヤーウェの神格が天上に押し上げられて全知全能という属性を与えられた時、この世に悪が存在する原因が必要になったから、ということになるだろう。悪は神によって引き起こされるものではなく、神の被造物が自由意志によって巻き起こした混乱である、と説明するため。いわば神義論のためだ。

神に一番近い存在だった天使ルシファー。だが慢心したルシファーは神になりかわろうと天国で反乱を起こす。大天使ミカエルとの闘いに敗れた彼は地獄に落とされ、彼に味方した天使たちもまた堕天使となった。

<トリックスター的な神、ヘルメス>

・多少とも天使に近いイメージの存在として、ヘルメス(ローマ神話ではメルクリウス)を挙げることもできる。ゼウスと妖精マイアの子と言われ、半神的存在である。好機の神で、商人や盗賊を庇護する。翼のついたサンダルと帽子を身に着け、行動も思考も素早い。トリックスター的な神とも言える。ギリシア神話の中で神々の使者の役目をしばしば務めている。

 

・また、プシュコポンポス=魂を導く者として死者を冥界に送り届けるとされており、これも天使風だ。このような、魂を冥界に導くという役目を持つ下位の神は、いろいろな神話で見られることがある。ちなみに、キリスト教の伝統の中では、ヘルメスは異教の神なので、悪魔扱いされたようである。

<『ロキ 善悪では測れない神』>

<悪魔に擬せられた北欧のトリックスター>

・トリックスターはペテン師・道化師にして英雄という両面的価値を持つ神的な存在のことである。トリックスターは禁忌を破り、世界を変革する契機となるようなさまざまな動きを見せるため、時として悪神の顔を持っているように見える。ゲルマン神話のロキは現在ではトリックスターとして知られるが、キリスト教世界で悪魔のように見なされてきたという歴史を持つ。

 ロキはしばしばトールやオーディンというゲルマン神話の中心的な神々と行動を共にしているが、厄介ごとを引き起こすのを常としている。そしてその厄介ごとを収拾するために何かしら創造する。ただしその創造には不吉さ、不完全さがまとわりついている。

・北欧神話を代表する神々。オーディンは万物の創造主として、トールはオーディンの子で雷や戦争を司る神といわれる。

<ルシファー 神への反逆によって天から堕ちた堕天使>

<ルシファーの誕生>

・原始キリスト教では、悪魔の起源を考察し、堕天使であるということに落ち着いていった。イエスは(私はサタンが落ちるのを見た)と語る。天上の宮廷の一部を占めていた天使の1人サタンは、そこから放りだされたのである。そして悪魔の軍隊を組織して、人間に取り憑くなどして苦しめ、神の威光に抵抗しているが、キリストの到来によってその力は弱められた、と考えた。

・キリスト教では『エノク書』の、天使が女に欲情して地に降りたという説を退け、高慢によって堕落したという説を採った。

<ケルブとしてのルシファー>

・オリゲネスはさらに、『エゼキエル書』でテュロス(フェニキアの首都)の君主について語った言葉も堕天使=悪魔のことだと考えた。もとはケルブとして造られた無垢な存在で、神の聖なる山にいたのだが、「お前の心は美しさのゆえに高慢となり/栄華のゆえに知恵を堕落させた」ので滅ぼされて灰になってしまった、という内容である。このことからルシファーはケルブの1人だったとされた。

<アンチキリスト>

<終末の前に出現する正体不明の破壊者>

<イエスの名を騙る者>

・イエスは、終末の前触れとして、メシアを騙る者が現れることを予言する。偽のメシアは奇蹟的なわざで人々を惑わし、そこから苦難の時代が始まるが、最後まで耐え忍ぶ者は救われると言う(『マタイ福音書』)。この言葉から(アンチキリスト)という応用の幅の広い悪魔の概念が広がっていくことになる。

 パウロは書簡の中でさらに具体的に述べている。サタンの働きによって不法の者、滅びの子が出現し、自分こそは神であると宣言する、と(『テサロニケ2』)

 また、ヨハネは書簡の中で、アンチキリストという言葉を初めて使い、自分たちが脱退した集団をアンチキリストと見なしている。

<迫害者と異端者>

・こうしてアンチキリストに2つのイメージが与えられることになった。イエスやパウロの言葉に拠れば、奇蹟に見えることを行い、キリストを騙る、誰か1人の者だ。ヨハネに拠れば、信仰の否定者、また妨害者、異端者で、複数でもかまわない。両者に折り合いをつけるため、後の神学では最終の超自然的アンチキリストの前に、多数の人間のアンチキリストが現れるとした。

<ネフィリム 悪霊がこの世にはびこる理由>

<『創世記』の亀裂を埋める物語>

『創世記』には、神の子らが美しい人の娘たちを妻にしたために、ネフィリムという大昔の名高い英雄たちが属する種族が生まれた、というエピソードがある。だが、その直後にいきなり、地上に人の悪が増したことに心を痛めた神が、ノアを除いて人間を滅ぼそうとしたことが語られている(いわゆる洪水神話)。この奇妙な断絶に目を留めた者が、亀裂を埋めるため、ネフィリム神話を語り替えた。それがアゼザルの項で取り上げた、『エノク書・寝ずの番人の書』が描き出す見張りの天使の堕落の物語である。

 

・その筋書きによれば、神の子とは堕落した天使で、そのために世界には悪があふれた。しかもその人間と天使の間に生まれた巨人ネフィリムは英雄どころではなく、大食らいだったので、穀物などを食べ尽くすと、すべての生き物を食べ始め、しまいには人間を食い、互いの肉を食らいあった。この惨状を知った神は、ガブリエルに、ネフィリムを互いに殺し合わせて滅ぼせと命じる。さらに洪水によって悪人を滅ぼし、世界を一新しようとする。

<滅ぼされた巨人たちが悪霊>

・こうして『エノク書』の作者は『創世記』に整合性をもたらした。しかも同時に、外から来る悪(自然災害・疫病など)の起源をも説明する。すなわち、滅ぼされたネフィリムたちの霊が悪霊になり、女たちは魔女になったのだと。

 だが、この整合性のある悪の由来は、キリスト教ではほとんど問題にはされなかった。『エノク書』の一部『巨人の書』がマニ教の正典となったために、知られざる外典となったこともあるが、性的な話題を嫌うキリスト教ではあまり受けの良い説ではなかったのである。


by karasusan | 2016-10-26 14:03 | UFO | Comments(0)