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イリュミナティを含む影の集団(闇の勢力)がどんな時代にも「奥に隠れて」シナリオを描いて仕掛ける、その変わらざる仕組みが神示に見てとれます。(7)

『超常科学謎学事典』

―最新科学と秘教科学が謎と不思議を完全解明―

編者 秘教科学研究会   小学館  1993/1/10

<ディクソン(ジーン・)>

1918年生まれのアメリカの水晶占い師。現代最高の予言者といわれている。

 彼女は8歳のときに、街で出会ったジプシー老婆から水晶球とその占い法を伝授されたといわれている。第2次世界大戦中にはアメリカ政界に出入りしてさまざまな予言を行なった。その当時、ルーズベルト大統領に初めて会ったとき、半年後の大統領の死を告げたことで有名となる。しかし、彼女をほんとうに有名にしたのは、1952年に予言したケネディ大統領の暗殺だろう。「1960年の大統領選挙で選ばれるのは民主党の若いリーダーであり、この大統領は在職中に暗殺されるだろう。その犯人の名はOSで始まりDで終わる」。

・この予言どおり、1960年に選ばれたケネディは43歳という若い民主党のリーダーだった。そして1963年に暗殺されたのだが、その犯人とされているのは、OSで始まりDで終わるオズワルドという男だった。

 彼女の予言で的中した主なものは、ハマーショルド国連事務総長の事故死、ロバート・ケネディの暗殺、キング牧師の暗殺、アポロ4号の事故、ソ連軍のアフガン侵攻など。ニクソン大統領に対してウォーターゲート事件を予告したこともあった。

・今後の未来について、彼女は次のような予言を行なっている。1995年に中東で大事件勃発。米英仏や日本等、10か国が連合軍を結成。

 1999年に連合軍が中東に侵攻。それに対してソ連が核戦争を仕掛け、全人類の生存が危ぶまれる大戦争が開始される。

 2005年には、両陣営が力を失ったとき、中国が世界制覇に乗り出す。これに対して連合国も応戦し、2020年にはハルマゲドンで最後の戦闘が行われる。

 2020年から2037年の間に、ユダヤ人は真のキリストの再臨を迎える。その後世界は真に光り輝く時代に向かう。

・彼女の予言は、米ソ対立、米中対立という古い構図から作られており、何より全体像はユダヤ=キリスト教系予言の枠組みから一歩も出ていない。したがってこうした予言にはほとんど意味がないと考えてよいだろう。いっぽう、個人的な出来事については、的中例が多い。これはいわゆる霊能者的予言の特徴と合致する。水晶球を使用した波動による予言の域を一歩も出ていない占い師が、ユダヤ=キリスト教予言体系を学んだが、あるいはその波動とアストラルのレベルで感応した結果、こうした予言が生まれたものと思われる。

『現代世界と日蓮』  シリーズ日蓮5

上杉清文・末木文美士   春秋社  2015/5/25

『修羅の科学者  宮沢賢治      斎藤文一』

<修羅とは何か>

・本稿に課せられた命題は、「科学者たる宮沢賢治を通して現代科学の諸問題を論じる」というものである。それにあたって筆者は、法華経を通して「極大(マクロ)」から「極小(ミクロ)」なるものへ、およびそれらの活動を論じたいと考えている。

<銀河系に散らばって>

・賢治には銀河系や星の話がじつに多い。これはまさに驚くべきほどである。異常な、というべきか、それこそ賢治らしいというべきか。

 たとえば、白鳥座、マゼラン星雲、暗黒星雲、みなみ十字座、さそり座、北極星などがあり、さらに何よりも「銀河鉄道の夜」があって、そこでは地質学者が地層(銀層というべきか!)を掘ったり、星の世界へ信号をおくって鳥を探る人がいたりする。

 そこで気のつくことは、星の世界のルールと人間の世界のルールとが同列に置かれ、さらにそのあいだで相互に「交流」していることである。これは独創的なことといってよい。

 私は、これを、かのゲーテにもつながると考えている。これを例えば「コスミック・ユニファイの原則」とでも名づけたい。ゲーテという人は生きた天然自然に直面したとき、大から小までさまざまな分野のものが構造的に同一なものであることにたいして深い感動を覚えたという。そして、崇高なる自然の全貌を一つに心霊のひたむきな活動が予感したものである、と書いた。人間が自然を理解したいと渇望するとき、いっぽうの天然自然のほうもそれにこたえて理解されることをもとめるのではあるまいか。

・このようなことを、賢治に即して表現するとすれば、そこで登場するのが「コスミック・ユニファイ」である。

それは、

1) 宇宙は2つの部分からなり、極大のマクロ界と極微のミクロ界である。

2) 両界は開かれており(境界が閉じられておらず、外部と接続し、たえずエネルギー、物体のやりとりがおこなわれること、進化をつづける。さらにそれは散逸的(エネルギーが外部にむかって散逸する)な構造ゆらぎによって、自己創出(自己の固有な秩序のなかに異質な系が創出されて、新しい秩序を生む)を生み出す。

3) このように宇宙は無数のレベルがあって分化し、ダイナミックな自己組織をつくっているように見えるが、両界とも相手をもとめあって統一世界をめざしている――というのである。

『霊性の宇宙――宮沢賢治    安藤礼二』

<透明な幽霊の複合体>

・宮沢賢治は、決して長くはないその生涯のうちで、ただ2冊の書物だけしか世に問うことができなかった。『春と修羅』という一冊の詩集と、『注文の多い料理店』という1冊の童話集である。ともに大正131924)年、4月と11月に刊行されている。

 詩集ではなく『心象スケッチ』と称された『春と修羅』の「序」は、こうはじまっている――。

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

・賢治は、表現する「わたくし」を「あらゆる透明な幽霊の複合体」と考えていた。「心象スケッチ」とは、このような「透明な幽霊の複合体」として存在する「わたくし」から生み出されたものなのだ。それが『春と修羅』のみならず賢治の思想の出発点となっている。なぜ、「わたくし」は複合体として、しかも、「幽霊」の複合体として存在しなければならなかったのか。おそらく、そこには一つの重要な源泉が隠されていたのだ。

・現在のところ最も新しく、また最も網羅的に、賢治作品にあらわれる語彙の源泉を探った原子朗の『定本宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)によれば、「わたくし」を「あらゆる透明な幽霊の複合体と定義したとき、賢治の頭のなかにあったのは小泉八雲ことラフカディオ・ハーンのエッセイ「塵」であった可能性が高いという。ハーンはこの短いエッセイのなかに「霊魂(幽霊)の億兆の複合体」という記述を残している。「幽霊」、あるいは「霊魂」の複合体として成立する「わたくし」というヴィジョンは「塵」という一つのエッセイを超えて、ハーンの大乗仏教理解の根幹をなす。しかも、ハーンが理解する大乗仏教は、当時最先端の科学であった進化論と切り離すことができないものであった。

・「あらゆる透明な幽霊の複合体」として存在する「わたくし」というヴィジョンが、賢治の思想のみならず、ハーンの思想にとってもきわめて重要な位置を占めているとはじめて明確に述べてくれたのは、後の独創的な哲学体系を築き上げる西田幾多郎であった。西田は、第四高等中学校の教師時代の同僚であり、ハーンの教え子でもあった田部隆次が著した『小泉八雲』に「序」を寄せる。西田は、『善の研究』を書き上げる直前に田部にともなわれてハーンの東京の遺宅を訪れてさえいた。その際、二人に同行したのが、10年以上にも及ぶアメリカ滞在を引き上げ、日本に帰国したばかりの高等中学校以来の西田の盟友、鈴木大拙であった。鈴木大拙と西田幾多郎、そしてラフカディオ・ハーン。この邂逅もまた偶然である。しかし、そこには間違いなく近代という時代だけが可能にした必然がある。

・決して長くはなく、また、ハーンの文学的な営為を無条件で評価しているわけでもないが、西田が「序」のなかで的確にまとめたハーン思想の核心は、西田哲学の起源のみならず、賢治文学の起源の姿も明らかにしてくれる。西田は、こう記していた――。

 ヘルン氏は万象の背後に心霊の活動を見るといふ様な一種深い神秘思想を抱いた文学者であった、かれは我々の単純なる感覚や感情の奥に過去幾千年来の生の脈搏を感じたのみならず、肉体的表現の一々の上にも祖先以来幾世の霊の活動を見た。氏に従へば我々の人格は我々一代のものでなく、祖先以来幾代かの人格の複合体である、我々の肉の底には祖先以来の生命の流が波立って居る、我々の肉体は無限の過去から現在に連なるはてしなき心霊の柱のこなたの一端にすぎない、この肉体は無限なる心霊の群衆の物質的標徴である。

<光炎菩薩とヘツケル博士>

・宮沢賢治の『春と修羅』には無数の固有名詞が記されている。それらの固有名は現実に存在するものもあり、フィクションとして創り上げられたものもある。なかでも二つの固有名が、賢治の作品世界の独創性、賢治の思想の特異性を浮かび上がらせてくれる。一つは「小岩井農場」のパート4に登場する「光炎菩薩」、もう一つは「オホーツク挽歌」の冒頭に据えられた「青森挽歌」に登場する「ヘツケル博士」である。

 原子朗の『語彙辞典』にもとづいて、それぞれの固有名の成り立ちを明らかにすれば、以下の通りである。まず「光炎菩薩」については、「華厳経世間浄眼品第一に出てくる浄慧光炎自在王菩薩あたりが発想源か」と書かれ、太陽の仏たる毘盧遮那仏の「像を表している」としている。つまり、仏教的な語彙を換骨奪胎した賢治のフィクションだというのだ。もう一方の「ヘツケル博士」は実在する人物である。

・「小岩井農場」の文脈では天人であり獣である「ひかり」のこどもたちのイメージを集約するようなかたちでテクストに召喚されており、しかも「イーハトーボ農学校の春」を参照すれば、おそらくは理想の労働、理想の共同作業の「歌」とともに出現する何ものかである。

「小岩井農場」はこの後、パート56はそのタイトルのみが記され、従前からの心象スケッチに戻ったパート7を経て、最終部であるパート9へと続く。「小岩井農場」を締め括るパート9はパート4と密接な関係をもっており、「ひかり」のこどもたちに「ユリア」と「ペンペル」という名前が与えられる。「小岩井農場」の先駆形を参照すれば、ユリアとペンペルは中央アジアにその面影を残した光の天人であることが分かる。それとともに、その名前自体から、太古からの時間経過そのものを体現する存在であったことも、また。ユリアは太古の恐竜たちが生きていた侏羅紀(ジュラ紀)を象徴し、ペンペルは二畳紀(ペルム紀)を象徴しているとされる。古生代の最後である二畳紀を経て中生代の三畳紀、ジュラ紀、白亜紀に至るまで「億兆」という年月を経て現代にまで伝わる生命の証し、それがユリアであり、ペンペルであり、「ひかり」のこどもたちであった。

・登張は、この一節の注釈の冒頭でも、日蓮を引き合いに出す。光炎菩薩はツァラトゥストラであるとともに日蓮でもあった。登張は、超人への道を、まさに人間的な条件を超えて仏(如来)となることであると説く。超人を「仏」と等しいものとしたのは、自分独自の解釈によるのだ。登張はそう強調している。賢治もまた、友人への書簡のなかで、自分たちが実現を目指す文学を「如来の表現」と定義していた。賢治にとっても、登張=ニーチェにとっても、人間とは、如来になる可能性を蔵した、如来のための土台となる生命体だった。

『宮澤賢治とでくのぼうの生き方』

(話 桑原啓善)(でくのぼう書房)  1995/9

<宮澤賢治の4次元宇宙>

・「<宮澤賢治の作品の素晴らしさ>なぜ宮澤賢治の詩だとか童話が素晴らしいのかと申しますと、その秘密は、賢治は、物質世界だけでなくて、彼に言わせると『第4次元世界』、わたしたちから言うと『死後の世界』を見る霊能力を持っていたこと、これは私の見方なんですよ。

・であるので、彼は私たちの目には見えない高次元の、はっきり言うと高いあの世の風景だとか、あるいは、そこにある原理とかを見ることが、とらえることができまして、それを詩や童話の中に映し出すことができた。それから大事なことは、ただ向こうの風景を映し出しているだけじゃなくて、その中にある原理、原理といいますと、実はあの世もこの世も実際は一つにつながった世界でございましてね。賢治のような、そういう能力のある方は、他界の姿、4次元の姿を見ることによって、そこに流れている宇宙の法則、人生を動かしている法則、そういうものを見て取ることができた。

・要するに賢治が『銀河鉄道の夜』で見たものは、宇宙の根本的な真理である。それは何かと言いますと、仏教的な表現で言いますと「色即是空、空即是色」である。空というのは宇宙の中にある根本原理ですね。それは目には見えないんですけれども、それはまた形をとることもできる。物質であるものの原理は、源は空であるというのです」。

『あの世はあった』  文豪たちは見た!ふるえた!

三浦正雄 矢原秀人   ホメオシス   2006/12/25

<宮沢賢治、山中で平安時代の僧侶に遭遇――聖者は時空をこえる――>

<霊媒体質の賢治に見えたもの>

・宮沢賢治といえば、「永訣の朝」「雨ニモマケズ」「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「セロひきのゴーシュ」「注文の多い料理店」など数々の名作を残し、詩人・童話作家として現在ではあまりにも有名になりました。賢治の故郷岩手県花巻には、未だに賢治を慕って訪ねてくる老若男女が毎年30万人もいるとか、賢治人気は衰えません。しかし、その宮澤賢治は生前、ほとんど無名の教師・農業技術者でした。

・宮澤賢治は、なぜこれほどまでに人気があるのでしょうか?賢治の人気の秘密は、二つあるように思います。一つは彼のひたむきで純粋な生き方がとても魅力的であるということ、もう一つは、「不思議」というキーワードがぴったりくるような彼の作品の特徴にあるのではないでしょうか。

・賢治は、少年時代から霊媒体質とでもいうべき特異体質だったようで、少年時代に書かれた作品からすでにさまざまな超現実的な不思議な事物が登場しております。また、彼の不思議な作品に登場するさまざまな超現実的な現象はつくり事ではなく、実際に見聞したものだとしばしば語っています。

 生前たった2冊だけ刊行された作品のうちの1冊、童話集『注文の多い料理店』の「序」には、次のように記されています。

 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。

 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。

・宮澤賢治は、「どうしてもこんなことがあるようでしかたがない」どころか「どうしても見えてしまってしかたがない」ことに終生悩み続けた人でした。後述しますが、彼がこのような控えめな言い方をしたのは、旧家である宮沢家と地域社会のタブーのためのようです。

 生前に刊行されたもう一冊の作品は心象スケッチ『春と修羅』です。賢治は、「詩集」という言葉を使わず「心象スケッチ」とあえて主張しています。つまり心に見えたもの、聞こえたことをそのままスケッチしたものであって、いわゆる詩ではないというのです。

・ちなみにこの「心象」という言葉が、霊や超能力などをふくんだ「心の世界の全体像」を表すことは、後に触れます。

 つまり、賢治の作品に登場する神秘体験は、想像力によるフィクションではありません。生来の霊媒体質によって、実際に山野を散策するおりに見えた様々なものを作品中に描いているのです。山野の闇に棲息する魑魅魍魎の類から神仏のような高い存在まで、普通の人の肉眼には見えない様々な存在が、賢治の目には見えていたのです。それは異常心理とか想像力とか幻想とか幻覚とかでは片づけられないような切実でリアルなものだったのです。

<旧家と地域社会のタブーの中で>

・こうした不思議な世界について、賢治は、先に紹介したように生前に刊行された2冊のうちの1冊心象スケッチ『春と修羅』の「序」で、

 ただたしかに記録されたこれらのけしきは

 記録されたそのとおりのこのけしきで

このように述べておりました。

ひかえめな表現ではありますが、旧家の出で厳格な知識人の父親をもつ賢治にとって、自分の著書の序としては、これが精一杯の書き方だったのでしょう。そう、賢治は、不思議な世界がどうしても見えてしまってしかたがない人だったのです。

・詩人桑原啓善は、宮澤賢治の弟清六を訪ねて、興味深い言葉を聞いたと言います。「賢治が死後どんどん有名になったのは、また、賢治のことを書く人達が、それぞれ良い仕事をして著名になるのは、『賢治があちらで一生懸命努力しているから』と、繰り返し述べた」というのです。このことから、賢治同様に清六が異空間のことがわかると考えた桑原が、「『鬼神』のことに話題を向け」てみると、「途端に、清六氏の顔がひきつり、『それはタブーですから』と語ろうとしなかった。」と、その著書(『宮澤賢治の霊の世界』)の中で語っています。

 賢治が不思議な世界を見たままに描きながら、ワンクッション置いてまるで創作のようによそおっているのは、どうやら厳格な父親や地方社会のタブーなどへの気がねに原因がありそうです。

・先天的な霊媒体質に加えて、こうした山伏修行のようなことを行って霊感を高めた賢治の目には山野の間に棲息する魑魅魍魎の類から、神仏や昔の聖者まで、さまざまな肉眼では見えないものが見えていました。

賢治は、若い頃よりこの特殊能力に向き合い、悩み葛藤しています。『春と修羅』の中のいくつかの作品、例えば詩「小岩井農場」の中には、はっきりとこの葛藤ぶりが描かれています。どうしても見えてしまう天人の子どもの存在に深刻に悩んでいるのです。

・こうした宮澤賢治の神秘体験の中で特に鮮烈なものは、「河原坊」という詩(心象スケッチ)に描かれた一場面でしょう。

例によって、山野を踏み歩いていた賢治は、山奥で不思議な体験をするのです。野宿しようとして、金しばりのような状態になり、かつて何百年か前に、ここの河原にあった坊に住んでいたとおぼしき若い僧侶たちの姿を見るのです。

<何百年も前の若い坊さんたちに出会う>

<賢治が出会ったさまざまな怪異>

・森荘巳池は、この解説の中で、賢治と会って賢治から直接聞いた言葉を回想して記しています。

――早池峰山へ登った時でしたがねえ、あすこの麓に大きな大理石がごろごろ転がっているところがありましてねえ、その谷間は一寸した平地になっているのですがそこの近所に眠ってしまったんですよ。お月さまもあって静かでよい晩でしたね、うつらうつらしていましたらねえ、山の上の方から、谷あいをまるで疾風のように、黒いころもの坊さんが駆け降りて来るんですよ、念仏をとなえながら、またたく内に私の前を通り過ぎ、二人とも若いその坊さん達は、はだしでどしどし駆けて行ったんです。不思議なこともあるもんだとぼんやり私は見送っていましたがね。念仏はだんだん細く微かに、やがて聞えなくなったんですよ。後で調べたら、あすこは昔大きなお寺があったところらしいんですね、河原の坊といわれるところでしたよ。土台の石なんかもあるという話でしたよ。何百年か前の話でしょうねえ、天台か真言か古い時代の仏跡でしたでしょうねえ。        森荘巳池『宮澤賢治の肖像』   

<訪れてくる亡くなった妹トシ>

・このように「河原坊」での体験にとどまらず賢治の不思議な体験の証言が残されています。

 最愛の妹であり、唯一の理解者であった妹トシは、死後、賢治の前に何度も現れますが、このことについても、親友の佐藤隆房が聞き書きしています。次の言葉は、賢治が、農学校の生徒の照井謹二郎に語ったというものです。

「僕は妹のとし子が亡くなってから、いつも妹を思ってやすむ前には必ず読経し、ずっと仏壇のそばに寝起しているのだが、この間いつものように一心に御経を読んでからやすむと、枕辺にとし子の姿がありありと現れたので、すぐ起きてまた御経を上げていると見えなくなった。次の晩もやはり姿が見え、二晩だけであとは見えなかった。人間というものは人によるかもしれないが、死んでからまた別の姿になってどこかに生を受けるものらしい。」

・このように宮澤賢治は、霊界や異界を見る特異な霊媒体質の持ち主であったからこそ、死後、賢治の詩や童話がこれほど(教科書に載る、映画やアニメになる、世界各国に翻訳される、など)高く評価され、またその真摯で献身的な生き方に多くの人々が共感し、今だに賢治の史跡をたずねて故郷の花巻を訪ねてくる老若男女は、あとをたたないのではないでしょうか。その生涯もまた、何度も演劇化・映画化されています。

<宮澤賢治をもっと知りたい人のために>

・この病床の中でも、農民たちの肥料相談を受けるなど無理をして、若くしてその生涯を閉じることになります。このように宮澤賢治の生涯は、無償の他者への奉仕――今で言うところのボランティア精神にあふれたものでした。

・ところで本書のテーマは、あくまで霊魂や死後の世界が本当にあるのだろうか………というものです。そのため、そうした体験をした著名人の文献や行動をつぶさに調べてまとめているうちに、いつの間にか人類への愛とか、他者への思いやりにあふれた人物紹介になっていることに気づきました。

 宮澤賢治にかぎらず、新渡戸稲造もそうですが、あの世や霊魂の存在を感じとられる人ほど、心やさしく他人に対して思いやりが深くなる傾向があるのかも知れません。

『『遠野物語』を読み解く』

 石井正己  平凡社     2009/5/16

<天狗伝説と寺や家の宝物の関係>

・維新当時、赤い衣を着た僧侶が二人、大きな風船に乗って六角牛山の空を南に飛び過ぎるのを見た者があったということを、佐々木は祖父から聞いています(拾遺235話)。「大きな風船」が気球であるならば、これは気球が遠野の上空を飛んだ話ということになります。実際に気球が飛んだ事実があったのかどうかは確かめられませんが、大きな風船の飛んだ話もあれば、飛行機の飛んだ話もあるというのは、着実に遠野の上空に近代文明が入り込んでいたことを表します。

・そもそも遠野で上空を飛ぶものと言えば、まず思い起こされるのは天狗でした。天狗は山に住む妖怪で、自在にあちらこちらを移動しました。早池峰山の前面に立つ前薬師には天狗が住むと言いますが、土淵村山口のハネトという家の主人はこの前薬師に登って、三人の大男に出会い、麓まで送ってもらったという話があります(29話)。

・「遠野物語拾遺」にも、天狗の話が二話あります。一日市の万吉米屋の主人が稗貫郡の鉛温泉に湯治に行って天狗と懇意になり、天狗は最後に来た時、「天狗の衣」を残して行ったそうです(拾遺98話)。もう一説は次のようになります。

99 遠野の町の某といふ家には、天狗の衣といふ物を伝へて居る。袖の小さな襦袢のやうなもので、品は薄くさらさらとして寒冷紗(かんれいしゃ)に似て要る。袖には十六弁の菊の綾を織り、胴には瓢箪形の中に同じく菊の紋がある。色は青色であった。昔此家の主人と懇意にして居た清六天狗といふ者の着用であったといふ。清六天狗は伝ふる所に依れば、花巻あたりの人であったさうで、おれは物の王だと常に謂って居た。早池峰山などに登るにも、いつでも人の後から行って、頂上に著いて見ると知らぬ間に既に先へ来て居る。さうしてお前たちは如何して斯んなに遅かったかと言って笑ったさうである。酒が好きで常に小さな瓢箪を持ちあるき、それに幾らでも酒を量り入れて少しも溢れなかった。酒代にはよく錆びた小銭を以て払って居たといふ。此家には又天狗の衣の他に、下駄を貰って宝物として居た。右の清六天狗の末孫といふ者が、今も花巻の近村に住んで、人は之を天狗の家と呼んで居る。此家の娘が近い頃女郎になって、遠野の某屋に住み込んで居たことがある。此女は夜分如何に厳重に戸締りをして置いても、何所からか出て行って街をあるきまはり、又は人の家の林檎園に入って、果物を取って食べるのを楽しみにして居たが、今は一ノ関の方へ行って住んで居るといふ話である。

・先の万吉米屋の子孫は、実際、天狗の持っていた「衣」「下駄」「網袋」「弓矢」「掛軸」「湯呑茶碗」を保管してきましたが、今は遠野市立博物館に寄贈されています。

・遠野南部家は八戸から移封されてきましたが、その後も無関係ではなかったはずです。藩主と寺院、民衆との間には何の関係もなさそうですが、天狗を置いてみることで、隠れたネットワークが見えてくるように思われます。

『コレモ日本語アルカ?』    異人のことばが生まれるとき

金水敏     岩波書店   2014/9/11

<宮澤賢治の「山男の四月」>

・宮澤賢治の童話「山男の四月」は、有名な童話集『注文の多い料理店』(1924年刊)に収められている。「どんぐりと山猫」「注文の多い料理店」「鹿踊りのはじまり」等、よく知られた作品がいくつも収められているなかで、「山男の四月」は今日、他の作品に比べてかなり知名度が低い。

・「山男の四月」の粗筋を振り返っておこう(「青空文庫」などインターネットで全文読むことができる。短い童話なので、ぜひご一読いただきたい)。

兎をねらって歩いていた「山男」だったが、兎はとれないで山鳥がとれた。日あたりのいい南向きのかれ芝の上に寝ころび、仰向けになって碧い空やふわふわうるんだ雲を見ていると、「なんだかむやみに足とあたまが軽くなつて、逆さまに空気のなかにうかぶやうな、へんな気もちに」なった。そして「雲助のやうに、風にながされるのか、ひとりでに飛ぶのか、どこといふあてもなく、ふらふらあるいて」七つ森までやってきた。まもなく町へ行くが、町へ入っていくとすれば、化けないとなぐり殺されるので、木樵のかたちに化けた。町の入り口にある、いつもの魚屋の前で章魚の立派さに感心していると「大きな荷物をしよつた、汚ない浅黄服の支那人」が支那反物か六神丸を買わないかと声をかけてきた。山男は「どうもその支那人のぐちやぐちやした赤い眼が、とかげのやうでへんに怖くて」しかたがない。買う買うと言うと支那人は見るだけでもいいと言い、さらに赤い薬瓶のようなものと小指くらいのガラスのコップを取り出して、薬をのめと言い、自分もかぷっと呑んだ。山男は支那人の指も細くて爪も尖っていてこわいと思ったが、薬をのんでしまった。すると自分の体が六神丸になって、行李の中にしまわれてしまった。行李の中には、先に六神丸にされた別の男もいて、話を始めた。支那人が静かにするように言うと、山男は逆に人前で「どなつてやる」と脅かした。支那人はそれは困ると泣き出した。山男はかわいそうになって、町に入っても声をださないようにすると約束した。別の六神丸にされた男は上海から来たと言い、外の支那人は「陳」という名前であることを教えた。また、そばにある丸薬を呑めば体も元通りになることを教えた。山男は、陳がひとりの子供にまた薬を飲ませて六神丸にしようとしているのに気づき、丸薬を呑んで元の大きさに戻った。陳はびっくりして水薬をのまずに丸薬だけ呑むと、背がめきめき高くなって、山男につかみかかろうとした。山男は足がからまわりし、とうとう陳に捕まれられようとしたとき、夢から覚めた。すべては春の日の夢の中の話だった。

 まず、この童話の主人公である、金色の目、赤い顔、赤い髪の毛をした山男とは何者か。山男は、この童話以外にも「祭りの晩」、「紫紺染について」など賢治の他の作品に登場し、また柳田国男の『遠野物語』(1910)でも幾度か触れられているように、東北地方の民間伝承につたえられる、人のようで人でない、妖怪のようなものである。『遠野物語』の山男が概して恐ろしい存在として語られているのに対し、「山男の四月」の山男は、にしね山で兎狩りをするが、兎はとれず山鳥がとれてしまい、でもそのことにすぐ満足してしまうようなのんびりした性格を持ち、町の人を恐れて木こりに化けるという小心なところがあり、また自分をだました「支那人」にさえすぐ同情してしまうような素朴な心を持った好ましい人格として造形されている。宮澤賢治自身の自我が投影されているところもあるのだろう。

『宮沢賢治の世界』(銀河系を意識して)

(斉藤文一)(国文社)   2003/3

<「銀河鉄道の夜」の宮沢賢治と4次元>

・「<4次元感覚>賢治は法華経とアインシュタインの相対性理論を独自に統合したが、そういうものがミヤザワ4次元論である。ミヤザワ4次元論は、賢治の全作品と行動を貫く一本の柱であるが、また、古今の芸術と思想の中でも精神の高さと醇乎たる美しさにおいて注目に値すると思う」。

「賢治は4次元という言葉をよく使った。彼は、当時非常に流行した相対性理論にもとづく時空4次元論に関心をよせていたが、彼の4次元論は、単に自然界に対する解釈というにとどまらず、強く倫理的ないしは宗教的ともいうべき要請を含めて、彼の宇宙論の根幹にあったと思われる。

賢治の4次元論を要約すると、1、世界は時空4次元体をなしており、そこでは座標転換の法則が成立する。2、宇宙は、巨大なエネルギーの集積体であるとともに、一個の宇宙意識を持つ。3、生命は純化し、みんな昔からの兄弟であると共に、個我の意識も進化し、宇宙意志において一致する方向にある。4、宇宙感情が全ての個体を通じてまことの表現を持つとき、それが4次芸術である」。

「その背景は、アインシュタインの来日(1922年)とそれを契機とした相対性理論ブームがあげられよう。もう一つ、スタインメッツの相対性理論に対する解説書の英語原本を賢治は手に入れて研究したといわれている」。


by karasusan | 2016-12-24 15:01 | その他 | Comments(0)