人気ブログランキング | 話題のタグを見る

石巻では、車を運転中に人にぶつかった気がするという通報が多すぎて、通行止めになった道路もあると聞いた。まるで都市伝説のような恐怖体験だが、当時はこんな話は掃いて捨てるほどあったのである。(1)

『魂でもいいから、そばにいて』

311後の霊体験を聞く

奥野修司   新潮社    2017/2/28

<旅立ちの準備>

・死者・行方不明者18千人余を出した東日本大震災。その被災地で、不思議な体験が語られていると聞いたのはいつのことだったのだろう。多くの人の胸に秘められながら、口から口へと伝えられてきたそれは、大切な「亡き人との再会」ともいえる体験だった。同時にそれは、亡き人から生者へのメッセージともいえた。

 津波で流されたはずの祖母が、あの朝、出かけたときの服装のままで縁側に座って微笑んでいた。夢の中であの人にハグされると体温まで伝わってきてうれしい。亡くなったあの人の形態に電話をしたら、あの人の声が聞こえてきた。悲しんでいたら、津波で逝ったあの子のおもちゃが音をたてて動いた……。

事実であるかもしれないし、事実でないかもしれないが、確実なのは、不思議な体験をした当事者にとって、それは「事実」であるということである。

 東日本大震災の2年後から、僕は毎月のように被災地に通いつづけた。なにやらそうしないといけないような気がして、まるで仕事にでも出かけるかのように通った。ボランティアではない。もちろん物見遊山ではない。それは霊体験ともいえる。きわめて不思議な体験をした人から話を聞くことだった。

お迎え率

・「お迎え率って知らねえだろ。うちの患者さんの42%がお迎えを経験してるんだ。お迎えを知らねえ医者は医者じゃねえよ

・今から千年以上も前に、天台宗の僧・源信を中心とした結社が比叡山にあった。彼らは亡くなっていく仲間の耳元で、今何が見えるかと囁き、末期の言葉を書き留めたという。死ぬ直前に極楽か地獄を見ているはずだから、最初に何を見たか、死に逝く人は看取る人に言い残すことを約束したのである。このとき何かを見たとすれば「お迎え」に違いない。千年も前からお迎えがあったなら、お迎えは特殊な現象ではなく、人が死んでいく過程で起こる自然現象と考えたほうがいいのではないか。そんな思いを、このとき僕は岡部さんとはじめて共有できたのだ。

お迎えの話に導かれるように耳に入ってきたのが被災地に「幽霊譚」だった。

 実際、僕が聞いた話にこんなものがある。たとえばタクシーの運転手だ。

古川駅(宮城県)から陸前高田(岩手県)の病院まで客を乗せたんだが、着いたところには土台しか残っていなかった。お客さん!と振り返ったら誰も乗っていなかったんだよ

 仙台のある内装業者は、一緒に食事をしたときにふっとこんな話を漏らした。

震災の年の夏だったが、仮設住宅で夜遅くまで工事をしていたら、いきなり窓から知らない人がいっぱい覗いていた。そのとき頭の中に若い女性の声で「わたし、死んだのかしら」なんて聞こえた。驚いてあらためて窓を見たが、年寄りの幽霊ばっかりだった」。

・またある女子大生の話。

閖上大橋のあたりに行くと、高校時代にいつもそこで待ち合わせていた親友が立っているんです。でも、その子はお母さんと一緒に津波で流されたはずなんです

 ある婦人のこんな話もある。

「ある日、ピンポンと鳴ったのでドアを開けると、ずぶ濡れの女の人が立っていました。おかしいなと思ったんですが、着替えを貸してくださいというので、着替えを渡してドアを閉めたら、またピンポンと鳴った。玄関を開けると、今度は大勢の人が口々に、“着替えを!”と叫んでいた」

 石巻では、車を運転中に人にぶつかった気がするという通報が多すぎて、通行止めになった道路もあると聞いた。まるで都市伝説のような恐怖体験だが、当時はこんな話は掃いて捨てるほどあったのである。

「これはお迎えと同じだよ。きちんと聞き取りをしたほうがいいんだが」と、岡部さんはさりげなく僕の目を見て言う。

 お迎えは、僕の中で実体験としてあるが、霊体験となるとそうはいかない。当時の僕にすればUFOを調べろと言われているようなものだった。

「柳田國男が書いた『遠野物語』も、考えてみればお化けの物語だよ。ところが、第99話で柳田は、男が明治三陸地震の津波で死んだ妻と出会う話を書いているよな。妻が結婚する前に親しかった男と、あの世で一緒になっていたという話だ。なんでわざわざ男と一緒に亭主の前に出てくるのかわからんが、死んだ女房に逢ったのに、怖いとはどこにも書いていない。恐怖は関係ないんだ。つまり家族の霊に出合ったときは、知らない人の霊に出合うときの感情とはまったく違うということじゃないか?

 沖縄戦のさなかに、北部のあるヤンバルという山中で逃げまどっているとき、先に戦死した兄の案内で九死に一生を得たといった霊的体験を沖縄で何度か聞いたことがある。それを語ってくれた老人は、一度も怖いと言わなかったことを僕は思い出した。

この人たちにとって此岸と彼岸にはたいして差がないのだ

・「石巻のあるばあさんが、近所の人から『あんたとこのおじいちゃんの霊が大街道(国道398号線)の十字路で出たそうよ』と聞いたそうだ。なんで私の前に出てくれないんだと思っただろうな、でもそんなことはおくびにも出さず、私もおじいちゃんに逢いたいって、毎晩その十字路に立っているんだそうだ」

<『待っている』『そこにも行かないよ』>

津波はリアス式の三陸に来るもの

・「今年(2016年)の正月明けでした。これからどう生きていけばいいのか悩んでいたときです。このとき娘はいなかったのですが、これまでと違ってはっきりとした像でした。夢の中で妻はこう言ったんです。

「いまは何もしてあげられないよ」

 そう言われたとき、あの世からそんな簡単に手助けはできないんだろうなと、私は夢の中で思っていました。

・「ええ、父も私もしゃべっています。父が出てくる夢は毎回同じでした。バス停とか船着き場とか電車のホームで、いつも乗り物を待っている夢なんです。父が待っているので私も一緒に待っていると、『まだ来ねえからいいんだ。おれはここで待ってる。おめえは先に行ってろ』と父は言うんです」

・「今でも忘れない不思議な出来事が起こったのはその頃です。東京に行く用事があったので、震災の年の73日に気仙沼のブティックで洋服を買っていました。4人ぐらいお客さんがいて、1人ずつ帰っていき、私も洋服を手にしてレジに向かったら、最後まで残っていた女性のお客さんから『どなたか亡くなりましたか』と声をかけられたんです。びっくりして振り向くと、『お父さんとお母さんでしょ? あなたに言いたいことがあるそうだから、ここで言ってもいい?』

 店の人が言うには、気仙沼で占いを職業にしている方で、女性雑誌にも出ているそうです。私はほとんど反射的に『はい』と返事をしていました。私は、その頃、左の腕が重いというか、肩こりでもない、筋肉痛でもない、なにか違和感があってので、原因がわかるかもしれないという気持ちがあって承諾したのだと思います。

「あなたは胃が弱いから胃の病気に気を付けろとお父さんが言ってます。お母さんは、ありがとうと言ってますよ」そこで号泣してしまいました。

・「父は港町でかまぼこ屋をしながら、船をかけたりしていました。ああ、船をかけるというのは船主になることです50年もかまぼこ屋をしながら、船主になりたくて、全財産を失ってしまいました。6航海のうち、黒字になったのは1回だけ。赤字で帰ってきても、船主は人件費や燃料費を支払わないといけないから、バクチのようなものです。それでもやってみたかったんでしょうね。市会議員も2期やって、今思えば好きなことをやってきた人でした。借金を抱えて全財産を失ったあと、実家はうちの叔母が肩代わりをして買い取り、下を駐車場にして、2階に管理人として住んでいました」

兄から届いたメール≪ありがとう≫

・被災地の不思議な体験で圧倒的に多いのが、亡くなった家族や恋人が夢にあらわれることである。それもリアルでカラーの夢が多い。中には4Kのように鮮明で、夢かうつつかわからないことがあると証言した方もいる。面白いのは、電波と霊体験に親和性があるのか、携帯電話にまつわる話が多いことだ。

 たとえば、のちに詳しく紹介するが、余震で家の中がめちゃくちゃになって暗闇の中で途方に暮れていたら、津波で亡くなった夫の携帯電話がいきなり煌々と光りだしたという証言。また、津波で逝った“兄”の声を聞きたいと思って電話をしたら、死んだはずの“兄”が電話に出たという話。

・「朝8時半でした。役場で死亡届を書いているときにメールを知らせる音が鳴ったんです。従妹が『電話だよ』と言ったので、『これはメールだから大丈夫』と言って、死亡届を書き終えて提出しました。そのあと受付のカウンターでメールを開いたら、亡くなった兄からだったんです。

≪ありがとう≫ひと言だけそう書かれていました。

・余談がある。震災の年の夏、陸前高田にボランティアでオガミサマがやってきたという。オガミサマというのは、沖縄のユタや恐山のイタコに似て、「口寄せ」や「仏降ろし」をする霊媒師のことである。沖縄では「ユタ買い」という言葉があるほど、日常生活に密着しているが、かつて東北にもオガミサマは生活の一部としてあった。たとえば誰かが亡くなったとすると、仏教式の葬儀を執り行なう前にオガミサマを呼び、亡くなった人の魂を降ろしてきて、口寄せで死者とコミュニケーションをとったそうである。オガミサマは東北地方の「陰の文化」としてあったのだ。

・常子さんがこのオガミサマに兄のことをたずねると、口寄せでこう言ったそうだ。

「おれ、死んだんだな。でもよかった。これでよかったんだ。みんなに、自分が動けなくなって寝たきりになる姿を見せたくなかったし、これでよかったんだ」

 オガミサマを信じない人にはたわごとでしかないが、信じる人にはあの世に繋げるかけがえのない言葉である死者とコミュニケーションをとれることは、遺された人にとって最高のグリーフケア(身近な人の死別を経験して悲嘆に暮れる人を支援すること)なのだと思う

「ママ、笑って」―—おもちゃを動かす3歳児

東日本大震災における宮城県内の死者・行方不明者は1万2千人弱を数えるが、このうち3977人と最大の人的被害を出した町が石巻市である。

・大切な人との別れは、それがどんな死であっても突然死である。とりわけ津波で亡くなるような場合、死を覚悟する時間がなかっただけに強い悲しみが残る。その悲しみは、幾年を経ても消えることがない。もういちど逢いたい、もういちどあの人の笑顔が見たい、ずっと一緒にいたい、そんな強い思いに引かれて、亡くなったあの人があらわれる。生きていたときの姿のままで、あるいは音になって、あるいは夢の中で、そのあらわれ方はさまざまだが、その刹那、大切なあの人は遺された人の心の中でよみがえり、死者と生きていることを実感するのだろう。

 後日、由理さんから電話があり、夜中に康ちゃんがボール遊びをしているのか、黄色いボールが動くんですと笑った。

神社が好きだったわが子の跫音(あしおと)

今回の旅のきっかけは、『遠野物語』だったと思う。あの中に地震の後の霊体験はたった一話しかなかったが、もしも明治三陸地震の直後だったら、柳田國男はもっとたくさんの体験談を聞いていたのではないだろうかと思ったのだ。

・恵子さんと先に登場した由理さんには共通する点がたくさんある。いや、二人に共通するのではなく、大切な人を喪ったすべての遺族に共通するのかもしれない。たとえば由理さんが、あの子がそばにいると思うと頑張れると言ったが、恵子さんもそうだった。

「迎えにも行ってあげられなかったし、助けてもあげられなかったのに、天井を走ったりして、私たちのそばにいてくれたんだと思うと、頑張らなきゃと思う」

<霊になっても『抱いてほしかった』>

・秀子さんが不思議な体験をしたのは夫の遺体が見つかる前日だった。

「今日は駄目だったけども、明日はきっと見つけてやっからね、と思って2階に上がったときでした。なんだか気になったから、ひょいと下を見たら、ニコッと笑ったひょいひょいと2回あらわれたのが見えたんです。それも鉛筆で描いたような顔でね。そこは支えるものがいから、人が立てるようなところじゃないの。でも、すぐお父さんだとわかったわ。どうしてわかったのかって?私のお父さんだから、雰囲気でわかるわ。だから『あっ、来たのね』って声に出したの。義姉も一緒に住んでいたので、念のために『義姉さん、お父さんの顔見た?』って訊いたけど、もちろん知らないって言ったわ。

 2回目は夕方でした。洗濯物を取り入れていたんだけど、ふと見たら白いドアの前に黒い人型の影がぽわっと立っているんです。ゆらゆら動く影を見て、ものすごい鳥肌が立ちました。『お父さん、そばまで来ているんだね。それとも誰かに見つけてもらったかな』って声をかけました」

枕元に立った夫からの言葉

・「お父さんは大船渡の出で、あの日はよく行く大船渡のお寺でお祓いをしてもらって帰ったんだけど、寒くてストーブを焚いた記憶があるからお盆ではないよね。あれは夢だったのか、それともお父さんの霊だったのか、いまだによくわからないんだね。私が布団に入っていたから、夜だったことは間違いないけど……、ああ、時計は一時だったね。目が醒めると、白い衣装を頭からかぶったようなお父さんがふわっとやってきて、

『心配したから来たんだぁ』と私に言ったんです。顔は暗くてよくわからなかったのですが、格好はお父さんだし、声も間違いなくお父さんなんです。それだけ言うと、誰だかわからない、同じ衣装を着た別の人が、お父さんを抱きかかえるようにしてドアからすーっと消えていきました。お父さんといえば、ふわふわと風船のように浮かんでいて、まるで風に流されるように離れていくんだね。あれは突然やってきて、突然いなくなった感じでした。お父さんはよく夢に出てきたけど、あれは夢とはちょっと違ったね」

・あれは遺体が見つかってから2ヵ月経った520日……、ああ、発見された日と同じだねぇ……。あの頃の私たちはまだ親戚の家の納屋に避難していましたが、仕事も始まってようやく気持ちも落ち着いてきました。その日は平日でしたね。世話になったおじちゃんだから、なんとなく電話したくなったの。一人でぼんやりしていると、ああ、おじちゃん、どうしているかな、逢いたいなあと思って、軽い気持ちで携帯で電話したんです。

 ブルルルルって鳴ったかと思ったら、突然電話に出たんですよ。

「はい、はい、はい」そう言って3回、返事をしました。「エエエッ!」

 声は克夫おじちゃんとそっくりです。いやいや、克夫おじちゃんに間違いないです。本当に嘘じゃないんですよ。自分で電話して驚くのもおかしいですが、あのときはもうびっくりするやら、信じられないやらで、怖くなってすぐ携帯を切ったんです。

誰? なんでおじちゃんが出るの

 ちょっとパニック状態でした。そしてしばらくしたら、というより数秒後でしたが、克夫おじちゃんの携帯から折り返しの電話があったんです。私の携帯に(番号登録した)『伊東克夫』って出たものだから、もう背筋が寒くなって、さすがに出られません。ベルが鳴り終わると、すぐにおじちゃんの番号を削除しましたよ。

・「霊体験なんてこれまで信じたことがなかったのに、自分がその体験者になって、頭がおかしくなったんじゃないかと思っている人もいます。同じような体験をした人が他にもたくさんいるとわかったら、自分はヘンだと思わないですよね。そういうことが普通にしゃべれる社会になってほしいんです」

 とはいえ、困ったのは、これが“ノンフィクション”として成り立つのかどうかということだった。なにしろ、語ってもらっても、その話が事実かどうか検証できない。再現性もないし、客観的な検証もできない。どうやってそれを事実であると伝えるのか。

『創』   201656月号

『ドキュメント 雨宮革命  (雨宮処凛)』

「幽霊」と「風俗」。311から5年が経って見えてくるもの

・一方、最近出版されている311をテーマとした書籍の中には、「5年」という時間が経ったからこそ、世に出すことができるようになったのだな、と感慨深い書籍もある。その中の一冊が『呼び覚まされる霊性の震災学 311生と死のはざまで』(新曜社)だ。

 東北学院大のゼミ生たちがフィールドワークを重ねて書いた卒論をまとめた一冊なのだが、その中には、震災後、宮城のタクシー運転手たちが経験した「幽霊現象」の話を追ったものがある。

 季節外れのコートに身を包んだ若い女性が告げた行き先に運転手が「あそこはほとんど更地ですが構いませんか」と尋ねると、「私は死んだんですか」と震える声で答え、振り向くと誰もいなかったという話や、やはり夏なのに厚手のコートを着た若い男性を載せたものの、到着した頃にはその姿が消えていたなどの話だ。

・このような「タクシーに乗る幽霊」に対しても、自らも身内を亡くした運転手たちは不思議と寛容だ。

「ちょっとした噂では聞いていたし、その時は“まあ、あってもおかしなことではない”と、“震災があったしなぁ”と思っていたけど、実際に自分が身をもってこの体験をするとは思っていなかったよ。さすがに驚いた。それでも、これからも手を挙げてタクシーを待っている人がいたら乗せるし、たとえまた同じようなことがあっても、途中で降ろしたりなんてことはしないよ」

 そう語るのは、津波で母を亡くしたドライバーだ。

「夢じゃない?」と思う人もいるだろうが、実際にメーターは切られ、記録は残る。不思議な現象は、事実上「無賃乗車」という扱いになっていることもある。

・さて、もう一冊、「5年経てばこういうことも出てくるだろうな」と妙に納得した本がある。それは『震災風俗嬢』(小野一光 太田出版)。帯にはこんな言葉が躍る。「東日本大震災からわずか1週間後に営業を再開させた風俗店があった。被災地の風俗嬢を5年にわたり取材した渾身のノンフィクション」

 本書を読み進めて驚かされるのは、311後、震災と津波と原発事故でメチャクチャな地で、風俗店はいつもより大忙しだったという事実だ。店によってはいつもの倍近い客が押し寄せたのだという。

・そう話した30代後半の男性は、子どもと妻と両親が津波に流されたのだという。妻は土に埋もれ、歯形の鑑定でやっと本人だとわかったということだった。

 一方で、風俗嬢たちも被災している。住んでいた街が津波に襲われるのを目撃した女の子もいれば、両親を亡くした女の子もいる。

・時間が経つにつれ、「311」を巡って、私たちの知らない側面が顔を覗かせるだろう。

 とにかく、あれから5年という月日が経った。あの時の、「言葉を失う」感覚を、一生忘れないでいようと思う。

『被災後を生きる――吉里吉里 大槌・釜石 奮闘記』 

竹沢尚一郎 中央公論新社   2013/1/10

被災後の行動から理解されること、改善されるべきこと

<被災者の語りは何を示しているのか>

・被災の直後に大槌町の人びとがどのように行動したかの生々しい証言を追ってきた。そのうちいくつかの話は、本当に彼らが危機一髪のところで助かっていたことを示しており、聞いているうちに私たちも手に汗を握ったり、感動のあまり思わず涙ぐんでしまったりするなど、他ではとても聞けそうにない深い内容をもっていた。そのような話を率直にかつ長時間にわたって話してくれたことに対して、深く感謝したい。

・とはいっても、彼らの体験を再現するだけでは、これまでに書かれた多くの書物と変わりがない。彼らの話を整理していくことによって、被災直後の人びとの行動の特徴として何が明らかになったのか、また彼らがそのように行動した理由は何であったのかを、明確にしていく作業が求められているはずだ。さらに、彼らがそのように行動したのは、個人的な理由からなのか、それともそこには制度的な問題が背後にあったのか。後者であるとすれば、それは今後どのように改善ないし修正していくべきなのか。そこまで議論を深めていかないかぎり、今後もおなじことがくり返されるであろうことは目に見えている。それであっては、今回の地震と津波の教訓を今後に活かしていくこともできなければ、津波で亡くなった方々に対する冥福にもならないだろう。

そうした人びとの冷静さを可能にしたのは、三陸沿岸が過去から大きな津波をくり返して経験しており、そうした経験が年配者から語りつがれるなどして、非常時にどのように行動すべきかの情報があらかじめ刻印されていたためであろう。それに加えて、宮城県沖を震源とする巨大地震がくり返されていたことも忘れるべきではない。その意味で、情報が正確に提示され、広く共有されていたことが、今回の多くの人びとの沈着な行動の背景にあったと考えられるのだ。

にもかかわらず、以上の話が明らかにしているのは、多くの人びとが地震後ただちに避難行動をとったわけではないという事実だ。つね日頃から用心を重ねていた徳田さんでさえ、車で自宅から避難し、安全な場所に達するのに20分を要している。一方、他の多くの人の場合には、家のなかを整理したり重要書類を取り出したりするなどして、避難開始が遅れている。

地域的・地理的に見ると、吉里吉里の住民の多くが地震後すぐに避難を開始したのに対し、大槌町や安渡の人びとは避難が遅れる傾向にあった。

・また、大槌の町方では津波直後に出火し、プロパンガスが爆発するなどして大火災が生じたために、救助活動がほとんどできずに多くの人命が失われている。そのことは、町方の死者343名、行方不明者325名と、行方不明者の割合が多いことに反映されている。

・これは大槌町にかぎられるものではないが、情報に大きな混乱が生じていたことも今回の被災の特徴であった。地震直後の午後249分に気象庁は大津波警報を出したが、マグニチュード9.0というわが国では前例のない巨大地震であったために、地震計が振り切れるなどして正確な測定ができず、岩手県沿岸部の予測値を3メートルとして発表した。その後、午後314分には岩手県沿岸部の予測値を6メートルにあげたが、大槌町では停電でテレビが消え防災放送も機能しなくなったために、最初の数字だけを覚えている人がほとんどだ。また、津波が襲って沿岸部の市街地や集落がほぼ全壊状態になっていたことを、おなじ市町村でも内陸部に住む人は知っていなかったし、となりの市町村ではなおさらであった。そうした情報の混乱や欠如が、人びとの避難行動を遅らせ、救助活動を阻害させたであろうことは否定できまい。

・さらに、勤務中あるいは職務中であったために逃げ遅れて、津波に巻き込まれた人が多いのも今回の被災の特徴であった。海岸から300メートルほどしか離れていない海抜ゼロメートル地帯に建てられていた大槌町役場では、役場前の広場で対策本部会議を開こうとしていた町長や幹部職員が津波に巻き込まれて亡くなったことは、新聞報道等でよく知られている。しかしそれだけでなく、その時役場のなかでは他の職員が勤務しており、その多くが津波に巻き込まれて亡くなったり、あわやというところで助かったりしたことは、赤崎さんの話からも明らかだ。さらに、停電で操作できなくなった水門を手動で閉めようとして亡くなった消防団員や、避難者や避難の車両を誘導したり、歩くのが困難な方を救助しようとして水にさらわれた消防団員や自主防災組織の役員が多いことも、先の話のなかで多くの人が指摘していた。

・他にも今回の地震後の避難行動や被災の特徴といえるものがあるだろうが、私としては以上の点に注目して、これからの議論を進めていきたい。まず、それを一点一点整理しておく。

――過去に何度も津波が襲来した土地であり、今回も大地震と津波が生じることが十分に予告されていたにもかかわらず、避難行動が遅れる傾向があった。とりわけ高台に住んでいた人の多くが避難しなかったり、避難行動が遅れたりして、津波に巻き込まれて亡くなっている。

――車で避難した人が多く、徒歩で逃げたのは一部にとどまった。車で避難した人の一部は渋滞で停車しており、そのまま津波に巻き込まれて亡くなった人が大勢いる。

――大槌町では津波後すぐに火災が発生したために、直後の救助活動を十分におこなうことができず、死者・行方不明者の数が増大した。

――被災直後に停電が発生し、ほとんどの地域で災害放送や携帯電話が不通となったこともあり、情報が混乱して正確な情報が伝わらず、避難行動や緊急救助活動が阻害された。

――役場で勤務していた職員や、水門を閉めようとして亡くなった消防団員など、勤務中・職務中に津波に巻き込まれて命を落とした人が多かった。

 これらの点はいずれも防災上・基本的かつ致命的な点というべきだ。それゆえ、今後に予想される災害に備えて防災・減災を考えていくには、その一点一点について原因を究明し、対策を検討していくことが必要なはずだ。

地震後の避難が遅れたのはなぜか

・以上のデータから何が理解できるのか。確実にいえることは、今回の地震がきわめて大規模であり、しかも三陸沿岸のような津波の常襲地帯で、大規模地震の到来が予告されていた土地であるにもかかわらず、多くの人が自宅から逃げずに亡くなっているということだ。理由はさまざまだろう。自宅が高台にあったために、ここまでは津波がこないと過信して巻き込まれたか。あるいは高齢その他の理由で、そもそも逃げることができなかったか。貴重品やペットを取りに戻って流されたというケースがかなりあることも、私が聞いた話から明らかになっている。その理由はどうであれ、多くの人が地震の直後に逃げないで亡くなっているという事実は、基礎的事実として確認されなくてはならない。

では、彼らはなぜ逃げなかったのか。くり返し述べてきたが、高台に自宅があったために、ここまでは津波がこないと過信して津波に巻き込まれた人が大勢いるのは事実だ。その意味では、津波の恐ろしさを周知徹底して、迅速な避難を呼びかけていくという作業はどこまでも必要だろう。

制度的な問題として第一にあげられるのは、気象庁が発表した大津波警報の過ちだ。気象庁が最初に発表した3メートルという数字が住民の意識のなかにインプットされてしまい、避難行動を遅らせていたことは私が集めた証言からも明らかだ。何人もの人が、3メートルの津波であれば6.5メートルの防潮堤でふせぐことができると考えて、避難しなかったと証言しているのだから。これは早急に改善されるべき点だが、これについては情報の課題の箇所で検討する。ここで取りあげるのは、津波の浸水予測図、いわゆるハザードマップの問題だ。

岩手県と大槌町が発表していたこのハザードマップが決定的に間違っていたこと、そのために多くの死者を出す一要因となったことは明らかだといわなくてはならない。間違いの第一は、今回の地震の予測をあまりに低く見積もっていたことであり、第二は、事実の誤認が多く含まれていることだたとえば大槌町のハザードマップでは、町方の避難指定場所であった江岸寺は明治と昭和の津波の浸水区域の外側に記載されている。しかし明治の大津波では、浸水が寺の庫裏の根板から1メートル20の高さに達していたことが過去の記録に明記されている。にもかかわらず、それが浸水区域外として記述されていたのはなぜなのか。間違っていることが明らかであるとすれば、誰が、あるいはいかなる部局が、なにを根拠として、このハザードマップを作成していたのかが解明されなくてはならない。それがおこなわれなかったなら、今後もおなじ過ちがくり返されるだろうからだ。

ハザードマップはなぜ間違っていたのか

・役所が指定した避難所が津波に襲われて大勢の人が亡くなったケースは、大槌町や釜石市だけでなく、陸前高田市でも宮城県三陸町でも見られている。であれば、役所の出していた想定が多くの箇所で間違っていたことは明らかなのであり、その想定がどのようにして作成され、役所はどれだけの情報をあらかじめ提示していたのか、その全過程が公表されることが不可欠だろう。情報をできるだけ正確に、かつ広く住民に提供するというのは、防災にかぎらず行政が銘記すべきことの第一であるのだから

車で逃げた人が多く、徒歩で逃げたのは一部にとどまったこと>

・このように、自宅や勤務場所の近くに避難ビルが適切に配置されていれば、徒歩での迅速な避難が可能になって、多くの人命が救われることができる。

情報の混乱や途絶があり、被害を拡大したこと

・被災後に出された情報の内容や伝達方法に関し、今回の震災は大きな課題があることを示した。まず気象庁の津波警報だが、沿岸部の住民の多くは、気象庁が最初に出した岩手県で3メートルという予測値だけを知り、避難行動の目安としていた。その意味で、気象庁の出したこの情報は、人びとの迅速な避難行動をうながすというより、むしろ逆にそれを阻害する要因として働いていたのは明らかだ。

被災後すぐに火災が発生したこと

・一方、火災に関しては別の問題がある。先の白澤さんの話にもあったように、車はすぐに発火するという問題だ。彼によれば、大槌町では火のついた車が水に流されて漂い、火をつけてまわったので町方全体が火の海に巻き込まれたというのだ。

勤務中に津波にさらわれた人が多かったこと

・大槌町では老朽化した役場の倒壊の危険性があったために、地震直後の役場の前の広場に机を並べて、災害対策会議を開こうとしていた。そこを津波が直撃したために、危険を察知して屋上に逃げようとした町長をはじめとする幹部職員の多くが水に流されて亡くなった。と同時に、役場のなかでは職員が避難もせずに勤務していたのであり、彼らもまた建物のなかで津波に呑まれてしまい、役場職員140名のうち40名もが尊い生命を失った。

<津波がまちを襲う>

マグニチュード9.0というわが国の観測史上最大規模の巨大地震とそれが引き起こした津波は、東日本の太平洋岸に大きな被害をもたらした。なかでも岩手県の三陸沿岸中部に位置する大槌町は、今回の震災で最大の被害を出した市町村のひとつだ。

・この本は、その311日から1年半のあいだに、吉里吉里をはじめとする大槌町と釜石市の人びとが、どのように行動し、何を語り、何を考えてきたかを再現することを目的として書かれたものだ。

・宮城県沖地震が30年以内に99パーセントの確立で襲うことが予想されていたにもかかわらず、その自身の規模と津波の予測が大きく間違っていたこと。しかも、地震の直後に気象庁が出した警報さえもが間違っていたこと。避難所に十分なそなえもなく、支援の手もなかなか入らず、住民自身の相互扶助と集団行動だけが秩序の空白を埋めていたこと。そしてまちづくりの現場では、住民の生活の質を向上させたり利便性を高めたりしようという配慮は行政の側にはほとんどなく、あるのはあいかわらず縦割り意識であり、数字合わせと表面的な効率性のみを重視する行政特有のロジックであること。これらのことを告発することもまた、本書が書かれた理由のひとつだったのだ。


by karasusan | 2018-01-03 00:16 | その他 | Comments(0)