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神であっても人間の若い女性に惚れたり、人間の女性に自らの子を生ませたという物語だって伝承されています。(1)

『アイヌ文化の基礎知識』

アイヌ民族博物館、児島恭子 監修  草風館 1993/10/1

神に対する考え方――信仰観――

神に対する基本的な考え方

・広大な大地、果てしなく広がる海原、流れ行く川、豊かな自然の中を大小様々な動物たちが往来し、山野には各種の植物が群生していたでしょう。そのなかにはコタン(集落)があり、コタンのなかには生活の用具が置かれています。そういうステージの上で人間が日々の生活を営むわけです。日々の生活のなかにはまた、地震、カミナリ、火事、津波、洪水、病気など、各種の自然現象が去来するでしょう。

 アイヌの人々によれば、そのような人間のまわりに存在する数限りない事象にはすべて「魂」が宿っているものだといいます。

天上の神の国からある使命を担って舞い降りてきて、姿かたちを変えながらこの地上に住んでいる証なのだ」ということです。つまり、天上の世界で神の姿をしているものが、この世にくると動物なり植物なりといった事象に化身するという考えです。使命を帯びてくるわけですから、この世での役割すなわち存在感のないものなどあろうはずがない、というのが人々の基本的な考えなのです。 

・ここで「魂」と書きましたが、これは生命体として人間的な生命力を有するという意味で解釈してください。霊」「霊力」という言葉を用いてもよいのですが、一般の人々にはどうも「ゆうれい」のイメージがつきまといがちにおもわれますし、適当な言葉がないので「魂」と記すことを理解してください。

・しかしながら、こうした「魂」といわゆる「神」とはまた違った次元で考えなければなりません。この世にある種の役割を担って存在こそすれ、その実、人間の生活にはあまり関わりのないものもあります。反対に、これがないと生活ができない、というものもありましょう。よく例にあげて説明するのですが、伝染病という好ましくない一つの現象があります。これは、人間にとってはどうしようもなく、素手で戦えるものではありませんでした。アイヌの人々は、伝染病をとても魂の強いものと考え、神の称号を与えてパコㇿカムイ(年を支配する神)と呼んでいました。

・それとは反対に、魂があることは認めつつも、人間が作り出す日常の雑器の類、あるいは生活にあまり必要とされない植物などを、普通は神として意識することはありません。

 こうしてみると、人間の生活に貢献するもの、なくてはならないもの、あるいは人間の力ではいかんともしがたい魂の強いものが、総じてアイヌの人々に神として意識されているといってよいでしょう。

 ついでに極論をいうと、魂が強いか、弱いかという人間の認識の度合いで、神のランク(位の高い、低い)もまた決まってくるといえるのです。

氏神と悪神

・いっぽう、神の中には、人間の欲望を充たすような良い神ばかりいるわけではありません。前述した伝染病をはじめ、天災、人間をまどわす悪い心、それらもすべて神として意識はしますが、決して良いとはいえません。こう説明するとすでにおわかりのように、人間生活に貢献するのが良い神、それをおびやかすのが悪い神なのです。

・沙流川筋の古老によれば、こうした観点から神を分ける呼び方が3通りあるといいます。①ペケㇾカムイ ②パセカムイ ③ウェンカムイ というような呼称があるといい、①は「普通のよい神」(ペケㇾは明るい・澄んでいる、という意味)、②は「重々しい、尊い神」、③は「悪い神」なのだというのです。ただ、悪い神だといっても、いつも悪いことだけをするわけではないのです。話がこんがらがってしまいそうですが、人間に「もう来ないでください。私たちのコタンからすみやかに去ってください」と祈られると、それを素直に聞いてさっといなくなる神もいれば、たまに人を助けるようなことをする神だっているというのです。また良い神だといっても、人間と同じく、ときには悪さをしたくなったり、嫉妬したりするのだといいます。つまり、人間と同じような感情があるのだというのです。

人間的な神

・神は人間とかけ離れたものではなく、きわめて人間的であることをもう少し述べてみましょう。神であっても人間の若い女性に惚れたり、人間の女性に自らの子を生ませたという物語だって伝承されています。

 さらに、神の国に帰れば、人間と同じ容姿にもどり、そこには妻や子も、仲間もいて、人間と同じように平和に暮らしているのだといいます。とても人間的です。嗜好品を例にとってみても、酒やタバコ、お菓子などは多くの人間が好むものですが、神も人間以上に好きでたまらないのだそうです。

・人間は喜怒哀楽の感情を持つことが当たり前ですが、神だってそれ以上の感情があるものだと、昔の伝統を担った古老であれば異口同音にいうのです。

 アイヌの人々の「神」に対する考え方をつきつめていえば、それは「人間の能力や価値判断を基本とした考えかたを総合的に組みたてたもの」とでもいえるでしょう。

どのような神がいるか

<この世での姿>

・この世での姿は、人間が実際に目にすることができるものから目にみえないものまでいろいろあります。

 いずれも人間の身辺に存在するものばかりです。たとえば、動物神のうち比較的位が高いと考えられているものをいくつかあげてみましょう。

 シマフクロウ、これは今では道東の一部にしか生息していないとされていますが、かつてはかなり広域にわたって生息していたといいます。この鳥は動物神の中では最高の位にある偉い神と考えられ、コタンコㇿカムイ(コタンをつかさどる神)と呼んでいました。

・植物神としては、矢毒の成分をつくるトリカブトをはじめ、イケマ、毒キノコ、ヨモギなどを神として強く意識しています。

 このような生物に姿を変えている神のほかに、山、海、河口、水源、沼や湖などの地形や場所をそれぞれつかさどる神も多く存在します。

・自然のいたるところに「~をつかさどる神」がいるといってもよいでしょう。火や水、風、地震、津波、カミナリといった自然現象そのものも強い魂をもった神として意識されています。

 そのほかに人間の目にみえるものとして、人間が用いる丸木舟や板綴り舟、臼や杵、食事に用いられる器、あるいは家や便所などの建造物にもそれぞれ神がついていると考えられているのです。

いっぽう、直接目では見ることができない悪心もあります。怠ける心や淫乱な気持ちだってあります。人々の考えによればそうした気持ちになるということは、その人間にそのような心をもつ神が憑くからだというのです。また、この世のあちこちを歩き廻り、人間に不幸をもたらす伝染病や飢餓、これらもそのための使命をもった神の仕業だといいます。この世での生命を絶った後、あの世にちゃんと行けないでいる人間や動物の霊、そういう浮遊の魂も神の範ちゅうに入るでしょう。

神の国での姿

ところが、地上に舞い降りてくる以前、あるいは神の国に帰った際、神々はどんな姿、格好をしているのでしょうか。

 カムイモシㇼ(天上にある神の国)では、神も人間と同じように親、兄弟、仲間がいるのだとされています。とても人間的な考え方です。そして、そこでの姿かたちもまたきわめて人間的であると感じずにはいられません。

 古老たちに、「カムイモシㇼではどんな格好をしている?」と聞くと、ほとんどの古老は、五体がそろって感性に富んだ人間の姿そのものだ、といいます

 ただ、身にまとうものは立派なもので、人間が儀式の際にまとうもの以上のきらびやかなものを身につけている、というのです。

 火の神であれば、力強く燃え上がる火模様のついたコソンテ(絹製の小袖)、水の神であれば、陽春の中をキラキラと光り輝きながら流れる水面のような模様が入ったコソンテを、それぞれ幾重にもまとい、いつも立派なニンカリ(耳飾り)やタマサイ(玉飾り)、テクンカニ(腕輪)などの装飾品を身につけて暮らしているのだというのです

 こうしてみると、前にも述べたように、アイヌの人々が考える神というのはあくまで現世、つまりこの世の人間の感覚や認識が基準となって観念化されていることがおわかりになるでしょうか?

神と人間の関係

<人間の祈り>

・“神”というのは、「人間の生活にとって必要なもの、人間の能力以上のものをもったもの」ですから、人々が敬うことは当然です。豊かな自然のいたるところに、それぞれこの世でのつとめを担った神が姿を変えて住み、人間は、それから生きていくためのエネルギーを提供してもらうのです。つまり、神々の庇護と生活の糧の提供なくして、人々の安定した平和な生活はあり得ないと考えられていたのです。

・その平和な暮らしをいつまでも保証してくれることへの願いと、これまで人間の祈りを聞いて実践してくれたことへの感謝を捧げるために、人間は“祈り”という儀式を通して、それらの思いを言葉に託して神に捧げるのです。イナウ(木幣)やサケ(酒)、ハル(食料)を捧げながら神に祈ることを、カムイノミ(神への祈り)またはカムイコオンカミ(神に対する礼拝)といいます。たいていは、知識と経験の豊富な長老たちによっておこなわれます。

祈りを受けた神のお返しもの

・その一方で、「もし、神に対して失礼な言葉、間違った言葉や作法をしようものなら、人間の祈りは決して神にとどかず、神を冒とくしたことになって、その反動が必ず祈る人間に返ってくる」ともいいます。カムイノミはそれだけ慎重さと厳粛さをともなうため、神を知り尽くした長老でないとできないのです。

・ところが、人間の切なる願いにもかかわらず、人間の意に反した結果となったときはどうなるのでしょう。そのとき長老たちは、「なぜわれらの願いごとをお聞きにならなかったのか、われらは祖先伝来の方法で失礼もなく祈りをおこなったのに!」と抗議の言葉を神に述べることもあります。「神として品位を傷つけたことになるのだから、あなたは神の仲間から疎外されるだろう!」と厳しい態度でのぞむことさえあるのです。

ういう意味からすれば人間も同様です。人間としてあるまじき行為をしたものは、人間からだけでなく、神々の間からも当然疎外され、死後も普通の人々が行く“あの世”には行けず、暗黒の世界に突き落とされてしまうのです。

神と人間のおくりもの

・祈りの際に人間はイナウや酒、団子、穀物、お菓子、くだものなどを神に捧げます。そのほか、タバコも捧げます。

 これらの供物は人々が作ったものですが、実はこれらを神は作ることができなく、一方的に人間から捧げられるだけだというのです。人間から神におくるプレゼントなのですから、イナウであれば丹念に削り作ったもの、食料であればよいもの、などを選んで捧げるのです。神はこのようなプレゼント品をことのほか好むと考えられています。

 神にとどくときには、人間がおくったものの数が何倍にも何十倍にも多くなり、イナウであれば神はそれを宝物としてだいじな箱にしまっておき、どっさり送られた食料や酒は多くの神々が招待を受けていただき、楽しい酒宴がおこなわれるといいます。神の国においては、このような人間界からプレゼントされる品々が多く、立派なものをおくられる神ほど、神の国における地位が高いとされるというのです。

 つまり、プレゼント品が多く、良質のものがおくられるということは、一面では、いかにその神が心ある人間から尊敬されているかということを示すものであって、それはとりもなおさず、神のステータスシンボルとなっているのだというのです。

いっぽう、神は何をするかというと、前述したように、人間の願いを聞いてそれを具体的に実行していかなければならないのです。そして、神が人間界に獲物を降ろすときも、人間が捧げるものが神の国で何十倍にもなるように、その数が地上にくる頃にははかりしれないほど多くなるといいます。神がさずける一頭のシカが地上では群れをなし、また一匹のサケが大群となって川を遡上して人間の里を訪れるのだ、というのです。

「あの世」に対する考え方

・人類学や民族学などでは、死後の世界に関する考え方なり概念を「他界観」といいます。「あの世について」という質問に対して説明するために、ここでアイヌの人々の他界観について触れてみましょう。ここでは、説明の便宜上、人間が現実に繰り広げる地上での生活の空間を「この世」と呼び、死後の世界空間、つまり死者の国を「あの世」と呼びましょう。

 アイヌの人々は、この世を「アイヌモシㇼ」(人間の国)と呼びます。どの地方でもアイヌモシㇼといわれることに変わりはありません。しかし、それでは、あの世はどこにあり、何というか、となると地方によって違いが認められます。北海道での事例をくまなく調べ上げたわけではないので、はっきりということはできませんが、あの世のどこに存在するか、という点ではおおまかにふたとおりの意識があるといえるでしょう。ひとつは「地下にある」という考え、もうひとつは「天上にある」という考えです。

・「地下にある」というあの世を「ポㇰナモシㇼ」(下の方の国)といい、これについては久保寺逸彦氏や泉靖一氏などの研究報文にもみられるところです。この意識は、日高地方の西部つまり沙流川流域を中心とした地方に伝承され、現在それを詳しく伝える古老も少なくありません。

他方、「天上にある」あの世に関しては、一般に「カムイモシㇼ」(神の国)といわれているようで、最近の信仰研究のいくつかの文献にも報告されています。それによれば、浦河や静内といった日高地方東部の古老は、天上にあるあの世のことを「アヌンモシㇼ」あるいは「アヌンコタン」と呼ぶといいます。

・ついでにもうひとつの違いをあげてみます。あの世が「地下」であるにせよ「天上」であるにせよ、それはこの世で人間として普通以上の人生を送った者の行く国で、悪業をした者は決してその国に行けず、草木も生えず奇怪な鳥が騒ぎ住む恐ろしい世界に落とされてしまうといわれていますあの世が「天上にある」という地方では、その恐ろしい国が天上ではなく地下にあって、それを「ポㇰナモシㇼ」と呼ぶのだといいます。あの世が「地下にある」という地方は、それがあの世のさらに下の方にあり、「テイネモシㇼ」(ジメジメした国)というのだ、というのです。

・ところで、「地下」「天上」というあの世の存在空間に違いが認められるにせよ、あの世に行くための入口が必ずあること、またそこを通ってあの世に行った際、その世界の情景や環境は、「地下」でも「天上」でもほとんど変わりがありません。

 あの世に通ずる入口を「アフンルパㇽ」(“あの世”に入る道の口)あるいは「オマンルパㇽ」(行く道の口)といいます。それがこの世には必ず存在します。写真は白老の人々のアフンルパㇽです。ひとつのコタンに1ヵ所あるというのではなく、ひとつのものが広域のコタン共有のものと意識されているといってもよいでしょう。

・人が亡くなると、その者は多くの人々に見守られながら「葬送」という手続きを経て、副葬品やほかの供物と一緒にあの世に向かうことになります。そして、死者の魂はアフンルパㇽを通り、自らの祖先やかつてこの世の仲間であった人々が平和に暮らしているのだとされ、そこでの生活のようすを古老たちにたずねると、あの世ではこの世と全く同じ生活がなされており、人が人として存在し、着物をまとい、チセに住み、この世のコタンと同じようなコタンがそこに展開するのだというのです。この世にある自分たちのコタンを取り囲む周囲の山々や川さえも同じ情景のもとで存在することにもなるのです。

・ただ、異なっていることは、あの世とこの世では季節や時間が逆になっていることなのだといいます。たとえば、冬に亡くなった人があの世に行くとそこは夏だったとか、この世での夜があの世では朝であったとか、になるのです沙流川筋の古老が「秋方に亡くなったフチ(おばあさん)に鍬をもたせてやったのをみたことがある」と話してくれたことがあります。それはあの世では春先だからせめてあの世に行ってもすぐに畑を耕せるように、という意味がこめられているからなのでしょう。

・また、その沙流川筋の古老によると、時間ばかりでなく、あの世とこの世では人の気持ちも逆になることがあるのだといいます。この世で亡くなるまでの未練を残した気持ちも、あの世に行ってからはきれいになくなっているものだというのです。愛し合っている若夫婦がいて、夫が亡くなる前、妻に「お前だけが恋しい。未練を残してあの世に行くのだから、あの世に行ってもお前のことは絶対忘れない。あの世でも一人でいる………」と言うものではないというのです。あの世に行くと、気持ちが逆になり、前のことはきれいに忘れ、そこでまたよい連れ合いができることもあるので、そうなるとこの世に残された妻の気持ちを裏切ることになる、というのです。

 このようの、アイヌの人々の他界観というのは、前の項で述べた「神」に対する観念と基本的には同じ考え方の上に成り立っているといえます。

先祖の供養をしたか

・日本の伝統の中では、お墓参りや仏壇に供物を添えて先祖をしのぶことが当たり前におこなわれています。若い人でさえ、盆や正月あるいは法事の際、仏前で合掌するのが普通です。このような行為は、現在の人々と物故者とのあいだの精神的連帯には欠かせないのです。

 アイヌの人々にそうした先祖を供養するしきたりがあるのか、とよく聞かれます。結論からいえば、アイヌの伝統文化の中では、お墓参りや仏壇の前で手を合わせることは絶対ありません。だいいち、仏教自体がかつては普及していなかったのですから、仏壇などあろうはずがないのです。お墓は、それぞれのコタンごとにあるのが普通ですが、それでも「墓に参る」ということはしません。それがアイヌの伝統です。

・アイヌの人々が祖先に対しておこなう供養の儀式を「シンヌラッパ」(祖霊祭)」といいます。ユカッやイオマンテと並び、アイヌ語特有の美しい響きをもつこの言葉はアイヌ文化を象徴するもののひとつとしてつとに知られており、みなさんもどこかで一度はお聞きになったことがありましょう。

こうしてみると、シンヌラッパの目的は、まず第一に、自らの祖先に対して酒、穀物、果物などの食料をおくることにあることがおわかりになるでしょう。

 あの世に暮らす祖先も、神と同じように食料を自分では作れないとされているので、あの世で何不自由なく暮らせるようにこの世からおくるのです。

 古老たちの話によれば、あの世で暮らす者で、現世(つまりこの世)に身寄りのない者は何も食べ物を届けてもらえず、あの世の川縁に座りながら、現世から送り届けられて舟に満載された食料をいつもうらやましがって見ているのだといいます。さらに、そのような者は浮遊の霊となって、あの世からこの世にやってきては、コタンの中を飛び廻るのだともいいます。

いわゆる“ゆうれい”にまつわる伝承も人々の間に数多く伝えられていますが、それはとりもなおさず、この世の人々から食料を送り届けられない者がお腹をすかせ、人間の手によって食料を捧げてもらいたいためにこの世に現われるのだ、と古老たちは教えてくれます。そして、それを見たり、感じたりしたならば、必ずタバコや食べ物を少しでもよいからチャㇽパ(撒く)するものだ、というのです。

 古老たちはよく、自分たちの子孫が途絶えてしまうことほど恐ろしいものはない、といいます

 裏を返せば、それは、前世の人々から食べ物を届けてもらえず、あの世に行っても生活に支障をきたすことを意味しているからなのでしょう。

シャクシャインの戦い

アイヌ民族とシサㇺとの最大の戦いですが、その発端となったのは、パエ(現在の日高町門別)のアイヌと、シプチャリ(現在の新ひだか町静内)のアイヌとの20年におよぶイウォㇽ(領地)をめぐる争いでした。

1640年代、パエの首長はオニビシ。シプチャリのおさはカモクタイン、副首長がシャクシャインでした。1648(慶安1)年、シャクシャインがオニビシの部下を殺すという事件が起こります。このときは、松前藩が調停に入ったのですが、5年後の1653(承応2)年に、パエのアイヌがカモクタインを殺してしまいます。その後、両者は小さな争いを繰り返し、そのつど松前藩が間に入っていたのですが、だんだん険悪な状態となり、1668(寛文8)年4月にはとうとうオニビシが殺されます

 

こうして、1669(寛文9)年6月、シラヌカからマシケに至るアイヌの人々が一斉に蜂起して、シサㇺに対する大戦争が開始されます。はじめ、アイヌ軍が優位の内に戦いが進められますが、クンヌイ(長万部町国縫)の戦い以後は、アイヌ軍の勢力が分断されたこともあって、シサㇺが優位となり、ついに、1023日松前軍とシャクシャイン軍とは和解することになります。ところがこれは偽りの和解で、その祝いの席でシャクシャインが殺されてしまいます。指導者を失ったシャクシャイン軍は、結局は敗れ去り、以後は長くアイヌの人々の虐げられた生活が続くことになります。

『コロポックルとはだれか』

―中世の千島列島とアイヌ伝説

瀬川拓郎  新典社新書   2012/4/24

封印されたアイヌ伝説

小人伝説はおとぎ話か

昔は十勝川に沿ってアイヌのほかにコロポクウンクル(ふきの下に住む者)という、ふきの下に56人が集まって住むぐらい小さい者たちがいた。コロポクウンクルは何でも人に与えるのが好きで、ごちそうを椀に入れてアイヌの戸口のござの下から差し出し、それをアイヌが受け取って押しいただくと喜んでいた。あるときアイヌのウエンクル(悪い奴)が、ごちそうをもってきたコロポクウンクルを家の中に引っ張り入れると裸の女であった。女は泣きながら帰ったが、あとでコロポクウンクルの親方が怒ってやってくる。激怒したコロポクウンクルたちはレプンコタン(海の向こうの国)に引き上げることになり、そのときに親方が「このコタン(村)のものは、ネプチー(何でも焼けろ)、とかプチー(枯れてしまう)という名を付ける」と言う。それまではシアンルルコタンというりっぱな名前だったが、それからはこのコタンを「トカプチコタン」と呼ぶようになった(帯広市で採録)。

・この伝説を読んで、コロポックルを実在の集団であったと考える人はおそらくいないでしょう。もしコロポックルが実在の集団だったと主張すれば、それは童話であり、妖精・妖怪譚のたぐいにすぎない、と一笑に付されてしまうにちがいありません。

封印されたコロポックル論

・帝国大学(東京大学)の人類学教室初代教授であった坪井正五郎らは、アイヌの伝説に登場するコロポックルこそが石器時代人だったのではないか、と主張した。

・一世を風靡した小人伝説は、河野常吉が「コロポックルはアイヌの小説なり」と坪井を強い調子で批判したように、事実に根差さない昔話であり、童話のたぐいであるとみなされたまま、ふたたび学問的な議論の対象となることはありませんでした。

中世千島の開発と小人伝説

・小人伝説は、中世アイヌ社会の一端をうかがう貴重な資料といえそうです。

・古代の千島は、アイヌとは系統の異なるサハリンから来た人びと(オホーツク文化人)が住んでいました。しかし近世の千島はアイヌが占めるところとなっており、もはやオホーツク文化人は住んでいませんでした。

アイヌの小人伝説

<ジョン・セーリス「二度蝦夷に行ったことのある一日本人が江戸の町で伝えた同地に関する情報」『日本渡航記』(1613年)

(道南の松前の)さらに北方には、同じ陸地上に、一寸法師のような背の低い人間が住んでいる。蝦夷人(アイヌ)は日本人と同じ丈の人間である。

松坂七郎兵衛他『勢州船北海漂着記』(1992年)

・南千島のエトロフ島に漂着した勢州船の記事です。船員は、エトロフ島からクナシリ島を経て北海道本島に渡り、十勝を経て松前から帰郷しました。この小人伝説は、帰途、クナシリ島から道東太平洋沿岸のあいだで聞きとったものとおもわれます。小人が「小人島」に住んでいること、その島にはワシが多くいること、船路100里もある遠い地から船で本島にやってくること、その目的が土鍋製作用の土(粘土)の採取にあること、脅すと身を隠すことなどについて記しています。

松宮観山『蝦夷談筆記(上)』(1710年)

・道南の日本海側、現在の上ノ国町小砂子の地名由来にかんする聞きとりです。100人ほどの小人が「小人島」から渡ってきたこと、その目的が土と草(あるいは葦)の採取であったことを記しています。

秦檍丸「女夷文手図」『蝦夷島奇観』(1807年)

・アイヌの女性の文身(イレズミ)の図に、道東の根室のアイヌから聞き取った伝説を解説として付したものです。古くはコッチャカモイという小さな神が北海道の各地にいたこと、アイヌとの直接的な接触を嫌い北海道から去ったこと、この神のイレズミをまねてアイヌのイレズミがはじまったこと、かれらの住んだ竪穴住居の跡が各地に残り、土器や宝が出土することなどを記しています。

最上徳内『渡島筆記』(1808年)

むかしコロブクングル(フキの下にその茎をもつ人の意)と呼ぶ小人がいたこと、道東ではこれをトイチセウンクル(竪穴住居に住む人の意)と呼ぶこと、アイヌ女性のイレズミがこの小人の習俗に由来すること、声は聞いてもその姿をみた者はいないこと、アイヌの漁に先回りし、あるいはアイヌの魚を盗み、アイヌも家に来て魚を乞うこと、魚を与えないと仕返しすること、小人は魚を乞うたのではなく、反対にアイヌに与えたともいわれること、家の窓から魚を乞う小人の女の手を引き入れたが、3日食事を与えないと死んでしまったこと、小人はアイヌにさまざまな悪さをなし、戦うときには甲冑を帯びてフキの下に隠れたことなどを記しています。

小人名称の三種類

一つ目は、竪穴住居に住む人(神)を意味するとおもわれる名称です。「トイチセコツチャ」「トイコイカモイ」「コッチャカモイ」「トイチセウンクル」がありました。二つ目は、フキの葉の下の(神)を意味する名称です。「コロボルグルカモイ」「コロブクングル」がありました。三つ目は、千島の人を意味する「クルムセ」です。

『神の策謀』

(原作:オニソイ・イーネグ)(コスミック出版)2007/3

(全宇宙と全生物を司る4元複素数体)

北海道のコロポックルはどこに消えたのだろうか!?

ヘブライの民は神に選ばれた宇宙人の末裔

・ヘブライの民は、神に選ばれた宇宙人の末裔なんだから。彼らの母星は、ニビル。ニビルは、シュメール語で交差するという意味だ。つまり太陽系を縦に交差する惑星がヘブライの民の故郷ということになる。

ヘブライの民は日本列島へ>(ニビルの神

ヘブライの民が惑星ニビルから来たのかどうかは分からない。しかし、惑星ニビルの動きに合わせて彼らが動かされていたことは確かである。金星から移住させただけなのに、ニビルからやってきたことにしたのかも知れない。

・巨人族は地球より重力の弱い惑星から来たはずだが、もともと地球重力下では、身長はどんどん小さくなって地球人並みになってしまう。いつも自分の体重が重荷になっているのが巨人族の子孫である。

小さいが頑丈な北海道のコロポックルのような連中は、きっと超重力の巨大惑星から来たに違いない。そんな連中は、地球ではすぐに引き延ばされて人類に同化してしまうが、フットワークは常に軽い。

巨人族と爬虫類族とコロポックルが実際に人類の歴史にどう関わって来たのかは、今のところ誰にも分からない。コロポックルは人類と仲良くしていたようであるが、爬虫類族は、龍神信仰を生んで神になった。巨人族はどこに消えたのか。

火星と木星の間には、かって計都(ケイト)と呼ばれる惑星があったそうである。このケイトの住民が爬虫類族だった可能性も否定し難いものがある。太陽から遠く離れて高度な進化を遂げるには遺伝子レベルで、二倍体、三倍体になって巨大化し体温の恒常化を計る必要がある。

地球では夜になると海底に戻って行ったそうである。高度に進化していれば、惑星ニビルの海底に理想の環境を作り出しているのかもしれない。

2012年に地球の地軸がどうなるか、爬虫類族が惑星ニビルから我々に挨拶にくるのかどうか。惑星ニビルからの移住者とされているヘブライの民が果たす役目は何なのか。すべては、今日神がどんな計画を立てうるのかということである。

ヘブライ国家・日本

そのための神の企ては、出エジプト記でモーゼにヘブライの民を40年かけて日本へ連れ出したことである。彼らの存在を3400年の間、歴史の中から隠してしまったのである。隠された当事者の日本人は、まだそのことを知らない。


by karasusan | 2018-03-27 20:56 | UFO | Comments(0)