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もし、さらわれて玃猿(かくえん)の女房にされてしまっても、子供を生まないと人間世界へ返してはもらえない。玃猿は人間世界に自分たちの子孫を残すことを望んでいるらしい。(1)

『中国の鬼神』

著 實吉達郎 、画 不二本蒼生  新紀元社 2005/10

玃猿(かくえん)

人間に子を生ませる妖猿

その中で玃猿(かくえん)は、人を、ことに女性をかどわかして行っては犯す、淫なるものとされている。『抱朴子』の著者・葛洪は、み猴が八百年生きると猨(えん)になり、猨が五百年生きると玃(かく)となる、と述べている。人が化して玃(かく)になることもあるというから、普通の山猿が年取って化けただけの妖猿(ばけざる)よりも位格が高いわけである。

 古くは漢の焦延寿の愛妾を盗んでいった玃猿の話がある。洪邁の『夷堅志』には、邵武の谷川の渡しで人間の男に変じて、人を背負って渡す玃猿というのが語られる。

 玃猿が非常に特徴的なのは、人間の女をさらう目的が「子を生ませる」ことにあるらしいこと、生めば母子もろともその家まで返してくれることであるその人、“サルのハーフ”はたいてい楊(よう)という姓になる。今、蜀の西南地方に楊という人が多いのは、みな玃猿の子孫だからである、と『捜神記』に書かれている。もし、さらわれて玃猿の女房にされてしまっても、子供を生まないと人間世界へ返してはもらえない。玃猿は人間世界に自分たちの子孫を残すことを望んでいるらしい。

蜃(しん)

蜃気楼を起こす元凶

・町や城の一つや二つは、雑作なくその腹の中へ入ってしまう超大物怪物だそうである。一説に蛤のでかい奴だともいい、龍ともカメともつかない怪物であるともいう。

 日本では魚津の蜃気楼が有名だが、中国では山にあらわれる蜃気楼を山市。海上にあらわれる蜃気楼を海市と称する。日本の近江八景のように、中国にも淄邑(しゆう)八景というのがある。その中に煥山(かんざん)山市というのがあると蒲松齢(ほしょうれい)はいっている。

 その煥山では何年かに一回、塔が見え、数十の宮殿があらわれる。67里も連なる城と町がありありと見えるのだそうである。ほかに鬼市(きし)(亡者の町)というのが見えることもあると蒲松齢が恐いことを言っている。

 『後西遊記』には、三蔵法師に相当する大顛法師半偈(たいてんほうしはんげ)の一行が旅の途中、城楼あり宝閣ありのたいへんにぎやかな市街にさしかかる。ところが、それが蜃気楼で、気がついてみると一行は蜃の腹の中にいた、という奇想天外な条がある。それによれば、途方もなく大きな蜃が時々、気を吐く。それが蜃気楼となる。その時あらわれる城や町は、以前、蜃が気を吐いては吸い込んでしまった城や町の幻影だ、というのである。

夜叉(やしゃ) 自然の精霊といわれるインド三大鬼神の一つ

・元来インドの鬼神でヤクシャ、ヤッカ、女性ならヤクシニーといい、薬叉とも書かれる。アスラ(阿修羅)、ラークシャサ(羅刹)と並んで、インドの三大鬼神といってもよい。夜叉はその三大鬼神の中でも最も起源が古く、もとはインドの原始時代の“自然の精霊”といっていい存在だった。それがアーリヤ民族がインドに入って来てから、悪鬼とされるようになった。さらに後世、大乗仏教が興ってから、夜叉には善夜叉(法行夜叉)、悪夜叉(非法行夜叉)の二種があるとされるようになった。

 大乗教徒はブッダを奉ずるだけでなく、夜叉や羅刹からシヴァ大神にいたるまでなんでもかんでも引っぱり込んで護法神にしたからである。ブッダにしたがい、護法の役を務める夜叉族は法行夜叉。いぜんとして敵対する者は非法行夜叉というわけである。

夜叉は一般に羅刹と同じく、自在に空を飛ぶことが出来る。これを飛天夜叉といって、それが女夜叉ヤクシニーであると、あっちこっちで男と交わり、食い殺したり、疫病を流行らせたりするので、天の神々がそれらを捕えて処罰するらしい。

安成三郎はその著『怪力乱神』の中に、善夜叉だがまあ平凡な男と思われる者と結婚した娘という奇話を書いている。汝州の農民王氏の娘が夜叉にさらわれてゆくのだが、彼女を引っかかえて空中を飛ぶ時は、「炎の赤髪、藍色の肌、耳は突き立ち、牙を咬み出している」のだが、地上に下り、王氏の娘の前にいる時は人間の男になる。

・人の姿をして町の中を歩いていることもあるが、人にはその夜叉の姿は見えないのだという。

王氏の娘は、約束通り2年後に、汝州の生家に帰された。庭にボヤーッと突っ立っていたそうだこの種の奇談には、きっと娘がその異形の者の子を宿したかどうか、生家へ帰ってから別の男に再嫁したかどうかが語られるのが普通だが、安成三郎はそこまで語っておられぬ『封神演義』に姿を見せる怪物、一気仙馬元は夜叉か羅刹だと考えられる。

『聊斎志異』には「夜叉国」なる一篇がある。夜叉の国へ、広州の除という男が漂着すると、そこに住む夜叉たちは怪貌醜悪だが、骨や玉の首輪をしている。野獣の肉を裂いて生で食うことしか知らず、徐がその肉を煮て、料理して食べることを教えると大喜びするという、野蛮だが正直善良な種族のように描写される。玉の首環を夜叉らが分けてくれ、夜叉の仲間として扱い、その頭目の夜叉にも引きあわせる。徐はその地で一頭の牝夜叉を娶って二人の子を生ませるというふうに、こういう話でも決して怪奇な異郷冒険談にならないところが中国である。

 夜叉女房と二人の子を連れて故郷へ帰ると、二人の子は何しろ夜叉の血を引いているのだから、強いのなんの、まもなく起こった戦で功名を立て、軍人として出世する。その時は除夫人である牝夜叉も一緒に従軍したそうだから、敵味方とも、さぞ驚動したことだろう。その子たちは、父の除に似て生まれたと見えて、人間らしい姿形をしていたようである。

羅刹(らせつ)  獣の牙、鷹の爪を持つ地獄の鬼

インドの鬼神、ラークシャサ。女性ならラークシャシー。夜叉、阿修羅と並んで、インド原産の三大鬼神とされる。阿修羅は主として神々に敵対し、羅刹は主に人類に敵対する。みな漢字の名前で通用することでも明らかなように、中、韓、日各国にも仏教とともに流入し、それぞれの国にある伝説、物語の中に根づいている。

 日本でも、「人間とは思えない」ような凶行非行を働く時、「この世ながらの夜叉羅刹……」と形容する。悪いことをすると死後地獄へゆくとされ、そこにたくさんの鬼がいて亡者をさんざん懲らしめるというが、その“地獄の鬼”こそ阿旁房羅刹と呼ばれる羅刹なのだ。

『焔魔天曼荼羅』によると十八将官、八万獄卒とあって、八万人の鬼卒を十八人の将校が率いていて、盛んにその恐るべき業務を行なっているという。日本、中国の地獄に牛鬼、馬鬼と呼ばれる鬼たちがいると伝えられるもの、みな羅刹なのだ。

 中国の『文献通考』によれば、羅刹鬼は「醜陋で、朱い髪、黒い顔、獣の牙、鷹の爪」を持っているという。『聊斎志異』には「羅刹海市」という一篇があり、どこかの海上に羅刹の国があることになっている。そこでは、われわれのいう“醜い”ということが“美しい”に相当し、“臭い”ということが、“いい匂い”に相当する。

 中国人を見ると逆に「妖物だ」といって逃げる。そこには都もあり、王もいるのだが、身分が高いほど醜悪であった。国は中国から東へ二万六千里離れている。神々や鮫人(こうじん)たちと交易していて、金帛異宝の類を取り引きしていた。

 この「羅刹海市」では他国から来た者を、即座に取って食うようなことはしないようであるが、中国の内外に来ている(?)羅刹はもちろん人さえ見れば取って食らう。『聶小倩』という小説によると、羅刹は長寿だが、やはり死ぬこともあり、骨を残すこともあるらしい。ところがその骨の一片だけでも、そばにおいていると心肝が切り取られ死んでしまう。また、羅刹も夜叉もそうだが、男性は醜怪だが女性は妖艶な美女と決まっていて、その美色を用いて人間の男を誘惑し、交わり、そのあとで殺して食う。

張果老(ちょうかろう)  何百歳なのかわからなかったという老神仙

・その頃の老翁たちで張果老を知っている者は、「彼はいったいいくつじゃろう、わしらの祖父の頃から変わらないのじゃ」と噂していたという。色々な仙術を使うばかりか、奇仙中の奇跡であった。帝王たちに尊信され招かれると、うるさがって死ぬくせがあった。唐の太宗も、その次の高宗も、召し出そうとしたが死んだ。恒州の中条山に隠れたっきり、下りて来なかったこともあった。

 則天武后は特に執拗で、「どうあっても来い」と強制した。張果老はいやいやながら山から連れ出されたが、妬女廟のところまで来かかると死んだ。真夏の最中なので、遺骸はすぐに腐敗して蛆が発生した。則天武后もそれを聞いてやっとその死を信じた。

 ところがほどもなく、恒州で張果老が生きている姿を何人も見た人があった。唐の玄宗は則天武后よりあとで帝位についた天子で、張果老が生きていることを知ると裴唔(はいご)という侍従を遣わし、「何がなんでも召し連れて来い」と命じた。裴唔が張果老に会うと、また悪いくせを出して死んでしまった。ざっとそんな具合であった。

 列仙伝などで仙人たちを紹介する文章には、必ず生地も、来歴も、字や称号も書いてあるのだが、この奇仙は張果と名乗り、何百年生きているのか分からないので、張果老と敬称がついているだけである。

 

・彼が汾州や晉州あたりまで出遊する時、乗っていくロバも、彼が奇仙であることの証明であった。それは“紙製のロバ”であった。見たところ、普通の白いロバなのだが、一日に数千里も踏破して疲れを知らない。目的地へ着くと、張果老はそのロバを折り畳んで、手箱の中へしまっておく。再び乗る必要が生じた時は、出して地面に広げて、口に含んだ水を吹きかけるとムクムクと立体化して白いロバになるので、またがって出発する。これなら、飲ませる水も食わせる飼葉も、つないでおく杭もいらないし、盗まれる恐れもないわけだ。

 玄宗皇帝の使者・裴唔が会った時、張果老はコロリと倒れて絶命してしまったのであるが、裴唔はこの老仙人がチョイチョイ死ぬくせがあることをわきまえていて、慌てず騒がなかった。死体に向かって恭しく香をたいて、お召しの旨を伝えた。すると張果老はヒョッコリ起き上がって礼を返した。人を馬鹿にした老爺。

・張果老はやっと重い腰を上げ、今度は死にもしないで上京する。まったく厄介な老爺。

 玄宗は張果老を宮中にとどめて厚遇を極めた。そうなると張果老は不愛想ではなく、よぼよぼ老人から忽ち黒髪皓歯の美男子に若返って見せたり、一斗入りの酒がめを人間に化けさせて皇帝の酒の相手をさせたり、けっこうご機嫌を取り結ぶようなこともするから、おもしろい。

 この宮中生活の間に張果老は、皇帝や曹皇后に大きな建物を移動させたり、花の咲いている木に息を吹きかけて、一瞬のうちに実をみのらせた、という話がある。

・玄宗はますます張果老を尊び、通玄先生という号を授けたり、集賢殿にその肖像画を掲げたりした。それでいて張果老は自分の来歴、素姓は決して語らない。どんなもの知りの老臣に聞いてもわからない。ここに葉法善(しょうほうぜん)という道士があった。

 皇帝に向かって密かに申し上げるには、「拙道は彼が何者であるかを存じております。しかし、それを口外いたしますと即刻死なねばなりませぬ。その時、陛下が御自ら免冠跣足(めんかんせんそく)し給い、張果老に詫びて、拙道を生き返らせて下さいますのなら申し上げましょう

 一言いうのに命がけである。むろん玄宗は「詫びてやる、生き返らせてつかわすから申せ」と迫った。葉法善は姿勢を正して、「しからば申し上げます。張果老はもとこれ人倫にあらせず、混沌初めて別れて天地成るの日、生まれ出でたる白蝙蝠の精……」といいかけて、バッタリ、床に倒れて息が絶えてしまった。

 

・玄宗は、慌てて張果老に与えてある部屋に行き、免冠跣足、つまり王冠を脱ぎ、跣足(はだし)になって罪人の形を取り、「生き返らせてくれ」といった。

かの葉法善という小僧は口が軽すぎます。こらしめてやりませぬと天地の機密を破るでしょう」と張果老は頑固爺さんを決め込んでいる。玄宗は繰り返して、「あれは朕が強制して、むりやりしゃべらせたのだから、今度だけは許してやってくれ。頼む」と懇請した。

 仙人たりとも、天子に「頼む」とまでいわれては、拒むことが出来ない。張果老は、“紙ロバ”にするように口に含んだ水を吹きかけて、葉法善を生き返らせてやった。

・この道士が、何ゆえ張果老の本相を知っていたのかは、仙人伝でも語られない。張果老を加えて八人の仙人を「八仙」といい、それらの活躍する物語『東遊記』では、いたずら小僧仙人の藍采和(らんさいわ)が、張果老のことを「あの蝙蝠爺さん」と呼んでいる部分がある。八仙のうちで藍采和一人だけが少年で、何仙姑(かせんこ)だけが女性である。藍采和が張果老の“紙ロバ”を失敬して乗りまわし、戻って来ると、八仙の中の名物男・鉄拐仙人(てっかいせんにん)がふざけて何仙姑を口説いている。藍采和が「逢引きですか、いけませんねえ」とからかうと、「何をいうか、この小僧」と鉄拐仙人がロバを奪い取って自分が乗る。三人は顔を見合わせて大笑いをした、という一説もある。

・張果老は、玄宗皇帝の宮廷にそう長いこと滞在していたわけではない。やがてふり切るようにして宮廷を去り、恒州の仙居に帰っていった。その後、今度という今度は本当に死んで人界から姿を消した、というのであるが、何しろ奇人の怪仙。本当に死んだのかどうか、誰も保証は出来ない。

 張果老は八仙の中でも長老格で、『東遊記』では泰山を動かして海へ放り込み、龍王たちを困らせるという大法力を示している。呂洞賓(りょとうひん)が「これから八仙がみなで海を渡ろうではないか」といった時も、老人らしくそれを制している。龍王が水軍を興して攻めて来た時も、ほかの七仙は油断して寝ていたのに、張果老だけは耳ざとい。先に目を覚ましてみなを呼び起こすといった調子で、一味違った活躍ぶりである。

太上老君(たいじょうろうくん) 仙風法力におよぶものがいない天上界の元老

民間信仰では仙人の中の第一人者。天界では三十三天の最上階、離恨天の兜率宮に住み、出仕する時は玉皇上帝の右に座している。地上では各地の道観の中心に祀られている主神格。

西王母(せいおうぼ) 天上界の瑤地仙府に住む女仙の祖

・瑤地金母、龍堂金母、王母娘娘、金星元君などと呼ばれ、天界へ来るほどのものは、玉帝の次には西王母に拝謁することになっている『封神演義』によると西王母に、普通お目にかかることが出来る男性は、南極仙翁だけだという。

 だが、それは道教世界の完成された西王母であって、史前の古伝承時代には、西王母は美女どころか、仙女どころか、怪獣といってもよい姿に描かれていた。髪の毛は伸び放題に振り乱し、玉の勝という髪飾りをつけ、恐ろしい声で吠え、豹の尾、虎の牙、玉山の岩窟に住み、三本足の怪鳥にかしづかれている。正確には男女の区別もつかない。

神農 仁愛の心に富んだ名君、炎帝と呼ばれた太陽神

・女媧の次にあらわれた大神。南方の天帝と呼ばれ、中国の中央から南方へ一万二千里の区域を治めた。その時、神農炎帝の玄孫にあたる火神・祝融が共同統治者であったとも伝わっている。

盤古 原初の巨怪

天地万物の発生源。それより前には何もない最古の神ともいえる。創世紀におけるただ一人の中心人物といってもいいが、“創業者”ではない。

 中国でも、「原初の状態は混沌として卵のごとく、天が地を包むこと、ちょうど卵黄が卵白の中にあるような状態であった」と語り出す。これは、日本神話でもインド神話でも同じである。そのうちに日本では神々が生まれ、インドでは、自存神が生まれたと説くのだが、中国の“世界のはじまり”では、盤古が生まれて一万八千年が経過する。それは巨大で、裸体で、額から扁平な角のようなものを二本生やしていた。盤古が意識というものを得て、行動しはじめた頃、天と地は分かれた。澄んで軽いものは上へ上へと昇って天となり、重い濁ったものは下へ下へと下って行って地となった。

哪吒(なた)太子    痛快で暴れん坊の少年英雄神

『西遊記』でおおいに孫行者と渡りあい、『封神演義』でも大活躍する。『南遊記』でも虚々実々の乱闘を華光を相手に繰り広げる。今でも中国の三大スターの一人、孫悟空、二郎真君と並んで、漫画、劇画、テレビドラマ、映画などで暴れまわっている。

 台湾の国際空港には哪吒太子の見事な彫刻が飾られている。日本ではナタ、ナタク、トンツ太子、中国ではナーザ、ノージャ、ナージャと発音し、『無敵神童李哪吒』という連続テレビドラマもあった。

・それでは哪吒は天界にいるにせよ地上に住むにせよ“純血種の中国人”か?というと、そうでもないらしい。父の李天王は毘沙門天夜叉神なのだから、「哪吒はインドの神々の一人の名」という説も立派にある。

 哪吒は大羅仙の化身、風雲の神ではなく、ナータというインドの少年神か? マンジュナータだったら文殊菩薩、アチャラナータならば不動明王だ。哪吒は“六神仏哪吒不動尊”の像が祀られていたと書いてある。

・二階堂善弘は、毘沙門天(インドではクベーラ神)には息子がいて、それがナラクーバラという名であった。これが中国では哪吒倶伐羅と書かれる。すなわち、哪吒のことだと述べている。

江戸幻獣博物誌』 妖怪と未確認動物のはざまで

伊藤龍平  青弓社   2010/10

「山人の国」の柳田國男

柳田國男の山人論

・昔々、越後の国の話。魚沼郡堀之内から十日町へと超える山道を、竹助という若者が大荷物を背負って歩いていた。

・道も半ばを過ぎたあたりで、竹助が道端の石に腰かけ、昼食に持参していた焼き飯(握り飯)を取り出したところ、笹の葉を押し分け、何か得体の知れないモノが近づいてくる。見れば、人とも猿ともつかぬ奇怪な怪物。顔は猿に似ているが、赤くはない。長く伸びた髪は半ば白く背中にまでかかり、大きな眼が光っている。竹助は心の強い者ゆえ刀を取り出して身構えたが、怪物は危害を加える様子もなく、竹助の焼き飯を物欲しげに指している。竹助が焼き飯を投げてよこすと、怪物もうれしげに食べる。もうひとつ投げると、また食べる。すっかり心を許した竹助が、また山道を歩きだそうとすると、お礼のつもりだろう、怪物は荷物を肩にかけて先に歩きだす。そのさまは、手ぶらで歩いているかと思われるほど軽やかだった。おかげで竹助は、一里半(約6キロ)もの嶮岨な道のりを楽に歩くことができた。目的地の池谷村近くまで来たところで怪物は荷物を下ろし、風のように山のなかに去っていった――

 以上、『北越雑記』(長沼寛之輔、文政年間(1818――29年)にある話。

こうした人か猿かわからない奇妙な生きものにまつわる話は、日本各地に伝承されていた。

 すなわち、人間に与するわけでなく、かといってむやみに敵対するわけでもなく、深い山奥でひっそりと独自の生活を営んでいたモノたちの話である。彼ら彼女らに関する記事は江戸時代の随筆類に散見され、近代以降も、例えば1970年代に話題になった広島県比婆郡(現・庄原氏)の類人猿(ヒバゴン)伝承などにかすかな命脈を保っている。

 この正体不明の怪物を、『北越雑記』の著者は「山男」「大人」と記し、『北越雪譜』の著者は「異獣」と記している。ほかにも彼らを指す言葉に「山童」「山丈」などがあり、また、「山爺」「山婆」「山姫」とも呼ばれた。

・柳田國男の『遠野物語』にもこれとよく似た話がある。附馬牛村(現・岩手県遠野市)の猟師が道を開くために入山し、小屋で火にあたっていたところ、得体の知れない大坊主(柳田は「山人」と解釈している)が来て、炉端の餅を物欲しげに見ているので与えるとうまそうに喰う。翌日もまた来るので、餅の代わりに白い石を焼いて与えて退治したという。一方、『遠野物語』では、餅をもらった山人がお礼にマダの木の皮を置いていったり、田打ちを手伝ったりと平和的な結末になっている。

 民俗学の祖である柳田國男は、これらの山中の怪を「山人(やまひと)」と総称した。通常、「山人」という語には、山で生活を営む人々を指す場合と、山に棲む半人半獣の怪物を指す場合があるが、柳田が扱ったのは後者の山人である柳田の山人論は、古今の伝承に残る山人を日本列島の先住民族だとする壮大な論である。そして柳田山人論の代表が『山人外伝資料―—山男山女山丈山姥山童山姫の話』という論文である。本書でも、柳田にならって彼ら山中の怪を「山人」と呼ぶことにする。

こうした半人半獣の神々、もしくは妖精たちに関する話は世界中で伝承されている。例えば、マラルメの詩「半獣神の午後」で知られる「パン(牧羊神)」はヤギの角と脚をもっているとされ、アンデルセンの童話で有名な「人魚」は下半身が魚類、ギリシャ神話の「ケンタウロス」は下半身が馬、インド神話の「ナーガ」は下半身が蛇である。「序」に書いたように、本草学の祖となった古代中国の帝王「神農」にも顔が牛だったとする伝承があるが、これはギリシャ神話のミノタウロスの怪物と同じである。西欧の幻獣で山人に相当するものは「野人」である。ただ、いま名を挙げた幻獣たちに比べると、「野人」はかなりの現実味をもって受け止められていた。

・西欧の野人について、伊藤氏の筆を借りながらもう少し説明しよう。伊藤氏によると、野人とは「森の奥深くとか山野とか砂漠に獣のように棲む」存在で、「完全に社会組織から孤立して、一貫した宗教をもたないで棲息する」という。これは「文明人とは対極にある」人生であり、西欧人の精神史にとって重要な意味をもっていた。「文明」とは「野生」との対比で見いだされるものだからである。容姿については「全身体毛に覆われている」のを特徴としており、「人間と猿との間の境界上にあってどちらの範疇にも当てはまりうる融通無碍、野人はこの人間か猿かの線引きのむずかしい境界線を特徴としている」という――日本の「山人」について記した江戸の文人たちも、大体同じイメージをもっていた。

 野人の存在を時間軸に上に位置づけると、いわゆるミッシング・リングの問題に行き当たる。つまり、人と猿とのあいだで結ばれる「存在の大いなる連鎖」の欠陥を補う存在としての「野人」である。進化論にもとづいた発想であり、その意味では、野人もまた時代の産物であった。これは今日の未確認動物伝承にも相応の有効性をもった解釈で、例えば、ヒマラヤの野人イエティ(雪男)の正体を、更新世に絶滅した類人猿ギガントピテクスに求める心性に生きている。

・柳田の山人理解にも進化論は影を落としている。繰り返すと、柳田山人論の要諦は、山人をかつて実在し、現在(大正時代)も実在の可能性のある先住民族の末裔と仮定して、その歴史を辿ることにあった「山人外伝資料」の冒頭で柳田は「拙者の信ずる所では、山人は此島国に昔繁栄して居た先住民族の子孫である」と明言し、山人論の文脈で書かれた「山姥奇聞」でも、「第一には、現実に山の奥には、昔も今もそのような者がいるのではないかということである」としたうえで、「果たしてわれわれ大和民族渡来前の異俗人が、避けて幽閉の地に潜んで永らえたとしたら、子を生み各地に分かれて住むことは少しも怪しむに足らない当然のことである」としている。ここには、いずれ人知が世界を掌握するだろうという予測が見られ、のちの未確認動物伝承が生まれる素地ができつつあるのがわかる。

 

このように、柳田は山人を獣類ではなく人類だと解釈していたが、それでもなお、進化論の影響は顕著で、それは山人史の構想を見れば、一目瞭然である。「山人外伝資料」の冒頭で柳田は「眼前粉雑を極めて極めて居る山人史の資料を、右の思想の変遷に従って処理淘汰して行く」ための方便として、山人の歴史を次の5つの時期に分類している(第5期はとくに命名されていない)。

1期・・国津神時代………………神代から山城遷都まで

2期・・鬼()時代………………鎌倉開幕まで

3期・・山神(狗賓(ぐひん)・天狗)時代………江戸初期まで

4期・・猿時代………………江戸末期まで(大正期)

5期・・(現代)………………大正初期

・詩人学者・柳田らしい実に壮大なビジョンである。「国津神」「鬼(物)」「山神(狗賓・天狗)」「猿」という名称の変遷は、山人そのものの零落ではなく、山人に対して抱いていたわれわれ(日本人)の心証の変遷を表している。

笑う山人、悟る山人

・山人とは何者か。少し本草書の事例にあたりながら考えてみよう。引用するのは、すべて「山人外伝資料」。

 山人はよく「笑う」。

・また、友人の小説家・水野盈太郎(葉舟)からの聞き書きにも「にこにこと笑いながら此方を目掛け近寄り来る」とある。人を見て笑うのは、山人の典型的な行動パターンの一つだった。

 また『遠野物語』から例を引くと、「離森の長者屋敷」に出た山女は人を見て「げたげたと」笑ったとあり、『遠野物語拾遺』にも栗橋村(現・岩手県釜石市)の山女が鉄砲を向けても臆せず笑うばかりだったという話や、土淵村(現・遠野市)の男が山中で大きな笑い声を二度聞いたという話、同じく土淵村の若者が山女に笑いかけられたという話がある。

後述するように、わが国には「狒々」という年老いた大猿にまつわる伝承もあり、話をややこしくしている事実、『本草綱目啓蒙』の「狒狒」の項でも、豊前(福岡県)・薩州(鹿児島県)での異名として「ヤマワロ」を挙げている。この点について柳田は、江戸時代に本草学が隆盛し、『大和本草』『和漢三才図会』などの書物が編まれたことに触れたのち、「此以後の書には山男山爺などは寓類に数えられて、狒々の次に置かれている。

話を戻すと、山人に限らず、異形のモノの「笑い」は友好の証しではなく、自身のテリトリーを侵した者に対する威嚇であった。山中に行く人が時折耳にする「テングワライ(天狗笑い)」もその一つで、この世のものとも思われないけたたましい哄笑があたりに響き渡る。これを聞いた者は、たいてい腰を抜かすが、剛の者が負けじと笑い返すと、いっそう大きい笑い声が響き渡るといい、こうなると「ヤマビコ(山彦や「コダマ(木霊)」という妖怪の伝承と似てくる福岡県に伝わる妖怪ヤマオラビは人と大声の出し合いをしたあげく、ついには殺すというから案外危険である。

・先ほどの「笑う山人」の伝承と同様、「悟る山人」も本草書に記述がある。もう一度、『和漢三才図会』の「獲(やまこ)」の項から引用すると、最初に『本草綱目』の「獲とは老猴である。猴に似ているが大きく、色は蒼黒。人のように歩行し、よく人や物を攫っていく」という言葉を引いたのち、「思うに、飛騨、美濃の深山中にいる動物は、猴に似ていて大きく黒色で長毛。よく立って歩き、またよく人語を話す。人の意向を予察してあえて害はしない。山人はこれを黒ん坊と呼んでいて、どちらも互いに怖れない。もし人がこれを殺そうと思うと、黒ん坊はいち早くその心を知って迅く遁れ去ってしまう。だからこれを捕らえることはできない」と自説を披露している。

 鳥山石燕は『今昔画図続百鬼』でこの妖怪を「覚(さとり)」と命名し、『和漢三才図会』と同じポーズをとる山人とおぼしき怪物の絵を載せている。

人か猿か

・以上のような相違点を確認したうえで、柳田と江戸の文人たちにはどのような共通点があるだろうか。次に一連の山人論の文脈で書かれた「狒々」という論文の一節を引用する。

 いわゆる山丈・山姥の研究を徹底ならしむるには、是非とも相当の注意を払わねばならぬ一の問題がまだ残っている。それはしばしば深山の人民と混淆せられて来た狒々という獣類の特性、及びこれと山人との異動如何である。全体狒々というような獣が果たしてこの島にいるかという事が、現代学会の疑問であるのに、近年自分の記憶するだけでも狒々を捕ったという新聞は二三にて止らず、さらに前代の記録にわたって攷察すると覚束ない点が多い。

 現在の猿の分類では、オナガザル科にヒヒ属という一類がある。マントヒヒなどが有名で、主にアフリカに生息しているが、柳田が書いている「狒々」はそれとは別物である。

狒々にまつわる昔話や伝説も数多いが、なかでも有名なのは「猿神退治」の話だろう狒々の人身御供にされようとする娘を救うために、旅の勇者に助太刀して、見事これを退治したのは「しっぺい太郎」という犬だった。この説話での狒々は年老いた大猿であり、動物であるのと同時に、大いなる山の神の面影がある。

 日本に大型の類人猿がいないことが判明して以降、狒々は想像上の動物として扱われるようになったが、「山人外伝資料」をはじめとする山人論が執筆された大正時代は、まだ動物の新種の発見・報告の可能性が高いと思われていた時代であった。

・山人について論じる際に柳田が苦慮したのは、両者をいかに弁別するかという問題だったろう。先ほど山人が「寓類」に分類され、「狒々」の項と並べて置かれているのを嘆く柳田の言を引いたが、柳田が考える山人とはあくまでも「此嶋国に昔繫栄して居た先住民の子孫」であり、山人論は「山人は人であると云ふ仮定」のもとに成り立つものだからである。

人か猿かという問題は、山人を妖怪や妖精の類ではなく、実体がともなう生物と認めたあとに生じる。この前提で、柳田と江戸の文人は共通している。山中に棲む奇妙な生きものを本草学の知識を用いて獣類の一種と捉えるか、用いずに先住民族の末裔と捉えるかは、報告された資料に施される解釈の相違にすぎないのである。

人か猿かはいざ知らず、山中にはこのような異形の生きものがいる――こうした考えが、柳田や江戸の文人はもちろん、記録される以前の山人の話をしていた人々にはあったのである。

 

・今日の視点に立てば、確かに「山人の国」は柳田が遺した「夢物語」だったかもしれない。しかし、本章で指摘してきたように、それは往年の新体詩人・柳田一人が見た夢ではなく、江戸の文人たちが見た夢の続きであり、近代以降の時間を生きた人たちもしばしば同じ夢を見た。すなわち、かつてこの国の深山幽谷のうちに人と同形の獣類が棲み、山路を急ぐ旅人や寒夜に焚き火で暖をとる狩人らがこれと行き遭って、ときにその肝胆を冷やさしめ、ときにその労苦を免れしめたという共同の幻想である。

『大江戸怪奇事件ファイル』

並木伸一郎   経済界  2009/12

彼らが住む異界

江戸という時代、この世と隣り合わせに存在する“異界=異次元”の扉が、あちこちに現出していたようだ。

 そして“魔”や“怪”“妖”なるものたちが、その扉を開けて姿を現わし、UFOや宇宙人、天狗や超人、幽体となったり、ときにはキツネやタヌキに姿を変えて、町人や村人たちを、その摩訶不思議な能力を駆使して、惑わし、たぶらかし、ときには彼らが住む異界へとかどわかしたりしていたようである。

時空を超えた? 頻発する神隠し事件

・江戸の時代“神隠し事件”もまた頻発していた。

 江州八幡(滋賀県近江八幡)に、松前屋市兵衛という金持ちがいた。市兵衛は親戚筋から妻を迎えて、しばらく二人暮らしをしていたそうだ。しかしある夜、異変が起きたのである。

 その夜、市兵衛は「便所に行く」といって、下女を連れて厠へ行った。しかしなかなか寝所へ戻ってこない。

それから20年ほどたったある日のこと。厠から人が呼ぶ声がするので行ってみると、なんと、そこに行方不明となっていた市兵衛が、いなくなったときと同じ衣服のまま厠に座っていたのである。驚いた家の者たちは市兵衛に「どういうことだ?」と聞いたが、はっきりした返事はない。ただ「腹が減った」といって、食べ物を欲しがったのである。

 さっそく食事を食べさせると、市兵衛が着ていた服は、ホコリのように散り失せてしまったという。昔のことを覚えている様子がなく、家族は医者やまじない師に相談するなど手を尽くしたが、思い出すことはなかったようだ。

神隠しとは、何の前触れもなく失跡することを指す。当時は神域である山や森などで行方不明になるばかりではなく、普通の生活の中でも神隠しが起こっている。そしてそのまま、戻らないこともしばしばあったのだ。

神隠し事件は何らかの要因によるタイムワープに合ってしまった、と考えるのがスジであろう。ふいに時空を超えてしまったのである。時を超える、あるいは異界=異次元空間に入るという概念がなかった当時は、「神の仕業」と考えるしかなかったのだ。タイムワープすると、時空移動の影響で記憶喪失になることが多いという。

空から人が降ってくる事

江戸時代におきた謎のテレポート事件

・文化7年(1810年)720日のことだ。江戸の浅草(東京都台東区)の南馬道竹門で、突如、奇怪な現象が起こった。なんと、夜空から男が降ってきたのだ。

 ちょうど風呂から帰る途中だった町内の若者が遭遇。空から降って湧いてきたように落ちてきた男を見て、腰をぬかさんばかりに驚いた。年のころは256歳。しかも下帯もつけておらず全裸。かろうじて、足に足袋だけはいていた。怪我をしている様子はなかったが、落ちてきたショックのせいでか、男はただ、呆然とたたずんでいる。

・「お前は、いったいどこの何者なのだ。どういういきさつで空から降ってきたのだ」と役人に問われ、男は怪訝な顔をしていった。「私は京都油小路二条上る町の安井御門跡の家来、伊藤内膳の倅で、安次郎という者だ。ここは、いったいなんというところなのか」問われて役人が、「ここは江戸の浅草というところだ」

 と教えると、男はびっくりして泣き始めた。自分がなぜ、こんなところにいるのかわからず、困惑の極致にあったようだ。

・今月18日の午前10時ごろ、友人の嘉右衛門という者と家僕の庄兵衛を連れて、愛宕山に参詣に出かけた。すごく暑い日だったので、衣を脱いで涼んだ。

・さて、これからがおかしな出来事が起こる。ひとりの老僧がいずこともなく現われて、こういった。「面白いものを見せてやろう。ついてきなさい」そういわれて、好奇心からこの老僧についていったのだという。ところが、その後の記憶がまったくない、という。気がついたら、倒れていたというわけだ。

 この話を信じるなら、この男は京都から江戸まで空を飛んできて浅草に降ってきたということになる。

・江戸に知り合いがいないということで、思案したあげく、役人は、男に着るものを与えてから奉行所に届けでた。

・この話のキーポイントは、謎の老僧である。この人物が男を京都から江戸にテレポートさせたものとみていいだろう。

 男ばかりではない。江戸の時代、女が降ってきた事件もある。

たとえば、三重村(三重県四日市)に住んでいる“きい”という名の女性が、全裸で京都府北部の岩滝村(岩滝町)に降っている。同様に、京都近隣の新田村でも花嫁姿の女が、また京の河原町にも女が降ってきた。この女は着物を着ていたが、江戸の日本橋から飛んできたことがわかっている。

 いずれの女性も、呆然自失しており、一瞬にしてテレポートした理由や原因がまったくわからないのである。無理やり説明をつけるなら、やはり、“天狗のしわざ”、としか考えられない事件である。


by karasusan | 2018-12-18 20:30 | 森羅万象 | Comments(0)