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そういう異常な世界を持った人である彼は、自分が魔界の住民であることを知っていたと思うんです。(1)

『仏の発見』

五木寛之 (対話者)梅原猛(哲学者)  平凡社 2011/3/8

西田哲学の根本には「かなしみ」がある。>

・(五木)疑いから生まれた哲学と、悲哀からはじまる哲学、両方の結論が大きくへだたっている理由がわかります。しかし、ふつう、フィロソフィというと、知を楽しむとか、そんなふうに説明されたりして、非常に乾いた、論理的な空間を想像しますけれども、「人生の悲哀に直面したときに哲学がはじまる」というのは、日本的でもあるけど、私は名言だと思いましたね。そこへ到達したのか、という。

(梅原)そうです。その意味で西田は、まったく日本的な情念をもった哲学者であったと言えるかもしれませんね。やっぱり優れた日本の文学者や哲学者には、必ず人生の悲哀があります。そういう悲哀が逆に、物を書く原動力になっているんですよ。

・(五木)いや、いや。でも、それはもう、ほんとうにそうなんですね。ものすごく力になっていることもあれば、やはりこんな悲惨で残酷な生を、なぜ人は生きなければならないのかと、考えさせられたりしましたから

(梅原)あなたの場合、お父さんが朝鮮の学校の校長先生で、戦後、朝鮮半島でたいへん苦労して、そこでお母さんは亡くなられたという、悲惨な体験があるわけですね。あなたの書かれたものによると、日本へ帰ってきたのは、15歳ですか。

(五木)はい。

(梅原)15歳で、だいたい一家の長のような仕事をしたというんですね。

(五木) 長男ですから。

自分は悪人である、許されざる人間であると

・(梅原)それで、ご自分の本当の人生があんまり悲惨すぎるので、文学の世界に入ったのか、そのへんを伺いたいと思ったんですね。

(五木)いや、そんなドラマみたいな話じゃないです。そうですねー。平壌で敗戦を迎えまして、それまでの植民者の、権力者側の子弟としての生活が一挙に、パスポートを持たない難民の生活に変わる。それから引き揚げてくると祖国では引揚者。いま帰国女子と言いますが(笑)。その当時、引揚者というのは一種の差別語だったんですよ。

(梅原)そうです。そうです。

(五木)ですから水俣のようなところでも、引揚者が条件の悪い汀によく家を構えたりして、台風がくるたびに被害が出るということもありました。ちょうどその時期、131415歳というあたりが、本人にとっては一番しんどい時期でした。

(梅原)そうでしょう。

(五木)これは、何度もくり返して話したことなんで、ちょっと気が引けるんですが、引き揚げて来る途中では、本当に地獄を見た、と言うとおおげさですが、大変でした。ソ連軍が入ってきて、たとえば、日本人がたくさん集まって収容されているセメント倉庫などに、ジープで乗り付けて来て、自動小銃を構えて「マダム・ダバイ(女、出せ)」という。そういうことが、毎晩のように起るわけですね。

(梅原)ああ………。

(五木)全員の死活にかかわることですから、幹部がいろいろと相談をして、あんまり若い女学生はダメだ。あんまりお年寄りでもダメだ、子供を持っている人はやめようとか、それぞれの事情を考えて、ソ連兵に出す女性を選んでしまうわけですよ。

(梅原)ああ。

(五木)前に大塚初重先生との対談集『弱き者の生き方』(毎日新聞社刊)で、くわしく話していますけれど、本人たちが泣いて嫌がったりするのを、結局、みんなで押し出すことになる。翌朝、ぼろぼろになって帰ってくる人もいれば、帰ってこない人もいるというような状態で、そういうことを、くり返しながら生きてきたものですから、自分たちは、そういう人たちを犠牲にして生きて帰って来たという、非常に深い罪の意識がありましてね。

 生き残ってきたものはエゴが強く、他人を押しのけてでも、自分は生き残ろうとするような人間なのだ、だからこそ、引き揚げてくることができて、心やさしき人たちは、みんな現地に残されたか、亡くなったという、深い負い目がいつも付きまとっていました。

(梅原)ええ。

(五木)それから、赤ん坊が栄養失調で死が目前ということになりますと、母親には、二通りあるんです。一つは母子一緒に心中しようという親と、もう一つは子供の命だけでも助けたいというので、現地の人たちに子供を渡したいという人と、相談を受けて、私自身、何人かお世話したことがありました。ということは、ある種の人買い、女を遊郭に売る、女衒のような仕事をやってきたわけですよね。十代のはじめで。

(梅原)ああ。

(五木)だから、そういうふうに、人びとを犠牲にしながら、自分たちは内地へ引き揚げてきたんだ。自分は悪人である、許されざる人間であるという思いが、少年時代からずうっと中年期まで続いていました。

大乗仏教の創始者は、ぜんぶ女色を犯しとる

・(梅原)そうですか。そのことは小説に書いておられますか。

(五木)いや、それは書けないですね。

・(五木)だとすると、あとは、つまり娯楽とか大衆文学とか、人を喜ばせるフィクションの道へ進み、自分は捨てるという。いうなれば上座部仏教、修行仏教への断念というものが、スタート地点にあったのかもしれません。

(梅原)それは、たいへん面白い比喩だと思いますよ。だいたい大乗仏教の創始者というものは、ぜんぶ女色を犯しとるんですよ(笑)。大乗仏教の創始者で、空の思想を説いた龍樹(ナーガルジュナ)という人は、若いときに、たくさんの女と交わるのがいちばん人生の喜びだと、仲間と共に身を隠す術で宮廷へ忍び込み、宮女と情を交わすんですよ(笑)。

 宮廷では、次つぎと妊娠する宮女が増えるので、きっと身を隠す術を使って忍び込む奴がいるにちがいないと、やみくもに刀で斬りつけたので、仲間はぜんぶ殺されて龍樹だけが生き残って、女色のむなしさを知ったという話があるんですわ。

川端康成は魔界の住人

・(梅原)私は川端康成と親しかったのですが、川端さんが晩年、「仏界入り易く、魔界入り難し」という言葉は一休(宗純)の言葉とされるが、それはほんとに一休の言葉かどうか調べてくれと言った。私はそのときに、川端さんが何で「仏界入り易く、魔界入り難し」という言葉に関心をもつか、わからなかったんです。私は川端康成さんに文学を教えられて、数学少年から文学少年に転向したんです。

・(梅原)そして川端さんが京都に来られたとき、私を呼び出して親しくさせていただいたのですが、晩年なぜ、川端さんはこんなことを頼むのか、わからなかったけど、のちに、川端さんが亡くなってから『みづうみ』なんか読むと、魔界を感じるんです。

(五木)そうです。

(梅原)そして『眠れる美女』も正に魔界の文学です。

(五木)まさに。

(梅原)だからねえ、戦前の川端文学は、たいへん美しい抒情文学だけど、じつは、根底に魔界があったんです。

(五木)よくあの作品を、学校ではノーベル賞作家の代表作として教えると思いますけれど。『雪国』だって、すごい官能小説ではないですか、ある意味では。

(梅原)ええ。あの澄みきった官能の世界というのは、うしろにやっぱり、魔界を秘めている。

(五木)異常な世界ですね

(梅原)まあ、五木さんも、異常な世界を書いているけど、根底に健康なものがあるけどね。川端文学は、表面は正常に見えるけど、根底に、たいへん異常なものをはらんでいる

(五木)『伊豆の踊子』みたいな、牧歌的に見えるような物語の中にも、どっか異常な精神を持っている人の作品なんですよ。『十六歳の日記』でもやっぱり異常です。

(五木)そうですね。

(梅原)そういう異常な世界を持った人である彼は、自分が魔界の住民であることを知っていたと思うんです。

(五木)うーん。

(梅原)私の『地獄の思想』を読んで、恐らく自分も地獄の住民じゃないかというふうに思って……。太宰治なんかと一緒に、自分も地獄の住民であると言いたかったのじゃないかと思いますよ。それが、私にはわからなんだ。

・(五木)川端さんが自殺したときは、なぜかとか、どうして?と言われてました。

(梅原)わからん。わからんな。

(五木)わからないですね。

(梅原)ノーベル賞をとったのに。

(五木)そうですよね。

(梅原)ふつうの人だったらば、ノーベル賞受賞で尊敬されて、生きつづけるんです。それがまあ、ふつうの人だと思うんですよ。ところが川端さんはノーベル賞をとってまだ、女の人が通ってくるのを、溝に入って眺めたり、そういうことを平気でやったと思うんです(笑)。それはやっぱり異常な世界ですわ。

(五木)このあいだ、NHKのある女性アナウンサーさんと会ったんです。彼女、わたしも川端先生に触られたと言ってましたよ(笑)。だまって太ももの上に手をのせて、と。

有名になることを避け、女体を描きつづけた画家

・(梅原)川端さんはペンクラブでも、男性の事務員はぜんぜん使わない。京都に来るにも女性の事務員に運転させてくるんです。そして川端さんがカネ払って、女性事務員を都ホテルに泊めてやる。そして夜はまたバーへ行って、別の若い女性を呼んでひやかすんですわ。男に対する関心は、ほとんどゼロですわ(笑)。

(五木)そうですか。

(梅原)やっぱり、そういう異常な感性を持っているんですよ。

・(梅原)川端さん、やっぱり私は好きですね。おかしな人だけど。だいたい、おかしな人のほうがいい作家じゃないですか(笑)。いまの作家は、ふつうのサラリーマンになってしまったような気がします。

(五木)いやー、川端さん、変わってましたねえ。加賀まり子さんも、かつて川端先生に触れられたそうですし(笑)。それも黙って、なんにもなしに、無言で向き合ってて、ただ黙って、こう、手を伸ばして、座っている膝にスッと触るというんだから、変わった人ですよ。

(梅原)やっぱり『眠れる美女』は、ほんとうのことですわ(笑)

川端康成はなぜ自死したか

・(五木)川端さんは、世間の模範的な国民文学者としてのイメージと、魔界にいる自分というものとの乖離の中で、自ら死を選んだんじゃないかなと、私は思うんですね。

(梅原)そうです。戦前は魔界の民がちょっと、美の仮面をかぶっておったんだ。

(五木)骨董をいじったり、いろいろするけれど、本当は若い女の子のお尻を触っているほうがよかった人なんでしょうね。

(梅原)魔界の人の見た美だったんだけど、戦前はそれをあらわに出さなかった。前後になって、いよいよ「古都」ぐらいから魔界の中に入ってきた。これはやっぱり、すごいですわ。

(五木)ふつう一般は、観光的に言われる『伊豆の踊子』でさえも、魔界がちらちら見える世界です。あの中には、ロリコンみたいな感じの、ふしぎなエロティシズムが横溢していますよだけど日本は、作家や文学から、ちょっとそういう不思議なものを消していこうとする傾向があるから、宮澤賢治の評価なんかでも、法華経的なものを抜いていこうとする流れがありますよね日蓮宗の熱心な信者で、国柱会のメンバーであったとかいうことは、あまり言われない

(梅原)そうです。川端さんにはノーベル賞の栄光があって、世間的なある種の才能があって、仕事をやりながらもね、やはりものすごい孤独で、魔界にいたんだと思うんです。そういう人だったと私は思う。その矛盾に耐えきれなくなって死んだという気がします。

(五木)そうですね。むかし話で申し訳ないけど、私は新人で、デビューしたのが33歳ぐらいなんです。まだ若いほうだったんですね。大雑誌の編集長なんかに当時の銀座の「エスポワール」とか「おそめ」みたいな、ああいうところへ連れて行かれたりすると、文学全集の口絵みたいに、川端さんからはじまって三島由紀夫さん、松本清張さん、安岡正太郎さんと、わーっと、きら星のごとく並んでいましてね。

 そういう中で端っこのほうに、ちょっともぞもぞして座っていると、川端さんが隣りに来るんです。他の同年配の作家とはあまり口きかないのに、いろいろ話しかけてきて、「きみ、きょう帰りに赤坂へ連れて行ってくれないか」と言うんですよ。「赤坂って、どこか目当てはあるんですか」と言ったら「絨毯バーというところへ行ってみたい」と。

 そのとき絨毯バーというのが結構はやっていましてね。秘密クラブみたいになっていて、靴を脱いで上がるところですね(笑)。他の同業の作家たちに比べると、私なんか中間小説の世界ですし、年齢もうんと離れているものですから、話しやすいと思ったんでしょうか。

(梅原)そうだろうな。気を許せたんでしょう。

(五木)ええ。「ちょっと五木くんね、一緒に赤坂の絨毯バーへ行こうよ」って、行くときに、銀座の園バーの近くに、アクセサリーの店があるんですけど、そこで安い小物を、イヤリングとかネックレスとか、そんなものをいっぱい買うんです。それで絨毯バーに行くと、いわゆる不良少女というか、ハイティーンの女の子なんかがいっぱいいるんですけどね、「あの連中、ちょっと呼ぼう」と(笑)

あのおじさんが、こんなものくれると言っているから来ないか」と言うと、みんな女の子たちは、「あ、知ってる。あのおじさん、こないだも来た。いろいろくれる人だ」って寄ってくるんですよ(笑)。その女の子たちを相手に「どれがいい?」なんて、あげたりしながら、2時間ぐらい、いろいろ喋ったり観察したりしながら、すごく楽しそうにしていましたよ。そういうことを思い出しますね、いやー、変わった人だったなあと思ってね。

(梅原)三島由紀夫の最後の4部作(『豊饒の海』)。あれは生まれ変わりの物語で、三島由紀夫が私に、それを仏教思想と読めるかどうか教えてくれと言ったんですけどね、私は、仏教思想とちがうと思ったのです。

 いまからみると、三島は仏教へ入ろうとして入れなかったんじゃないか。そして、仏教に入れず、追い詰められて国家神道の信者になったのではないか、ああいう過激なところへ入ってしまったんじゃないかと思いますけどね。むしろ三島がせっかく頼んだのだから、私ももっと仏教を、とくに三島が知りたがった唯識仏教を教えてやるべきじゃなかったかと後悔しているのです。

・(梅原)まあ、太宰にしても、三島にしても、川端にしても、やっぱり異常な人だったと私は思いますよそういう異常な人がいなくなってしまって、日本の文学は淋しくなった。

聖徳太子は一種の両性具有ではないか

・(五木)仏教の場合、仏とは、普通の人間が、さまざまな因縁の果てになったものということですが、多くの場合、恵まれた境遇の人というより、権力によって迫害されるとか、家族の縁を断たれて孤独を味わった人とか、ともかく、人生の悲哀を強く経験した人が、仏になるような気がします。

 梅原さんが、『隠された十字架』で描かれたのは、何歳くらいのときでした?

(梅原)そう、40代の後半ですね。突如として古代が乗り移ったという感じでね。それで書いたのが『神々の流竄』『隠された十字架――法隆寺論』『水底の歌――柿本人麻呂論』それは藤原不比等という権力者がいままで隠れておったんですね。隠された権力者が、奈良時代というすばらしい時代の歴史をつくった。しかし、自己の功績をまったく隠した。このような隠れた権力者が明らかになると、その時代が見えてきた。

 聖徳太子の子孫は、不比等の父の、鎌足によって一族が皆殺された。それで太子は怨霊になり時の政府に祟る。それで太子の怨霊の鎮魂が、時の政府の重要な政策になる。そして法隆寺が再建された。また人麻呂も、不比等の権力が増大するにつれて都から追われる。人麻呂は流罪者で殺されたのではないかという伝承は古くからあった。そして万葉集を読み直して、人麻呂は流罪――水死になったのはまちがいないと思い、一気に書いたのが、『水底の歌』でした。

(五木)はい。

(梅原)最初の『神々の流竄』は、ちょっとまちがったところがあってね、書き直して最近『葬られた王朝』という本を出しました。

『水底の歌』の次に出した『隠された十字架』は、法隆寺は聖徳太子の一族が創った寺だなんてとんでもないと。聖徳太子の一族は時の権力に滅ぼされた。その祟りがあるので、その怨霊を鎮める鎮魂の寺が、いわゆる法隆寺だという説で書き上げました。

・(五木)ですから、聖徳太子には、母性と父性と両方の要素がある。あの人は両性具有ではないですか。

(梅原)そうです。

(五木)なにか、そんな感じがします。

歴史の中に葬られた怨霊の悲しみを語る

・(梅原)太子一家の不幸な事件があるので、太子の霊の鎮魂が、奈良時代のいちばんの大きな問題だったと思いますよ。聖徳太子のような、仁徳のある人間の一家を滅ぼしたということは、権力を持った皇極天皇の皇子である天智天皇・天武天皇の子孫、および鎌足の子孫の罪悪感になる

『日本書紀』で太子を、聖徳太子として、特別な聖なる人として扱われているのはそのせい。徳のついた天皇は、多く殺されたか流された人です。崇徳上皇、安徳天皇がそうです。文徳天皇もあやしい。聖徳太子の怨霊は、過去の怨霊の鎮魂です。しかしまた不比等は、また新しい怨霊を作った。それが柿本人麻呂の怨霊です。

 こういう、歴史の中に葬られた怨霊を、私は拾い出して、彼らのかなしみを、まあ、語ったということです。それはどこかやっぱり、五木さんの小説と通じるところがある。『青春の門』も考えてみると、戦前から戦中、戦後にかけて、日本の歴史の表舞台から追いやられた人びとの、怨霊物語なんだな(笑)。

・(梅原)まあ、『神々の流竄』『隠された十字架』『水底の歌』を、3年で書いた。1日に80枚とか、3日で150枚とか書いていたこともある。

(五木)あとがきにお書きになっているのを見て、びっくりしました。1日に80枚書いたことがあると。それはもう、書いたというより、書かされていたという感じですね。

(梅原)ハハハ。

(五木)まさに作家の仕事というのはミディアム、巫女とか霊媒だと思いますね。ある意味では、イタコのような依代となって、お前はこれを語れ、という声が聞こえてきて、その声に揺り動かされて、憑かれたように物を書いていくというふうな。

丸山や小林を怒らせて

・(梅原)小林秀雄の悪口を言ったりね、丸山眞男の悪口を言ったりね。

(五木)それは小林、丸山といったら、日本の知性を代表する両横綱ですから。

(梅原)だから右も左も(笑)。私は、小林も丸山も世界に通用する思想家ではない、世界に通用しない日本の思想なんかつまらんと思うて、なで切った。

・(梅原)孤立無援で闘ったんですよ。丸山眞男は『日本の思想』というのを書いて、ものすごい評判になったが、丸山は日本の思想は蛸壺型だ、西洋の思想は簓(ささら)型だと結論づけた。それで私はアタマにきてね。つまり、ヨーロッパの思想は一貫しているけど、日本の思想はバラバラだと。そんなことはない。

 そういう丸山に対して「日本の思想を勉強してないからだ。大乗仏教をちゃんと勉強せよ。勉強したら日本の思想は決して蛸壺型じゃなく、首尾一貫したものがあることがわかるはずだ。丸山の思想のほうが蛸壺だ!」と書いた(笑)。それは丸山の全盛時代でね。丸山はなんとも言わなんだけど、丸山の子分たちが、ずっとのちのちまで憤って、いろいろ私に意地悪したんです

 じつは当時は、そのことにずっと気がついてなかったんですけれどね。ようやく最近になってそれを教えてくれる人があって、やっとわかった(笑)。

・(五木)たとえば、日本の民俗学の分野で、日本独自の手法で学問を完成させた柳田國男や折口信夫の功績をたたえて、柳田学とか折口学とかいうでしょう。そういう、一般の読者たちの支持の中から生まれてきた学問だから、いまはもう梅原学というのがあるわけですよ。梅原学という、一つの体系というものが確立されたときに、われわれは読むわけだから、読むほうの危険度もあまりないわけだけど、最初のときには、こういう人の本を読んで、だいじょうぶかなといったところもありましたね(笑)。

・(梅原)小林秀雄をやっつけたのは、小林がベルグソンの「笑い」について書いて、笑いとはこういうものだと、ベルグソン理論で得々と説明していた。

そんなベルグソン理論で説明せんと、お前は笑いを自分で考えよ」と言ったんです。まあ、若いときの小林秀雄は、認められないものを認めて、権威あるものを否定したんだけど、戦後は全然だめで、モーツァルトとかゴッホとか、みんな権威あるものだけを評価しているじゃないか、批評家の精神を失った、と思ったんです。

(五木)うーん

(梅原)これも小林の全盛時代でね(笑)。やっぱり怒っていましたよ。私は「芸術新潮」にはよく書いていたんだけど、新潮は小林秀雄に遠慮をしてか、それ以後、私には註文が来なかった(笑)。そういうやっぱり祟りがありました(笑)。

(五木)じゃ、ひとつ小林神社をつくって、鎮魂されたらいい(笑)。

(梅原)学会は沈黙していましたね。しかし、一般の人が盛んに読むんだ。怨霊の鎮魂は、ふつうの日本人がいちばんよくわかる。いままでの日本の学問は、そういう怨霊のことをほとんど語らなかった。わずかに柳田や折口が語り、『隠された十字架』『水底の歌』を最初に認めたのは、学者でも和歌森太郎や池田彌三郎などの、柳田・折口の影響を受けたひとだった。

聖徳太子は虐げられた民衆のヒーロー

・(五木)しかし、『隠された十字架』には、さっき言われた国の仏教、父性の仏教であると同時に、母性の仏教もあったのではないかとか、ハッとしたことがいっぱい出てくるんですよ。

 たおえば、法隆寺についてです。じつは、奈良の法隆寺のすぐ裏手にある誓興寺という、真宗の小さなお寺があるんですが、そこへ私は『風の王国』という小説を書くあいだ、ずっと通っていたものですから、法隆寺は朝夕散歩しました。あの境内を百回ぐらい歩いたんじゃないかと思うんですが、なにかよくわからない雰囲気があったんですよ。

・(五木)気持ち悪いですよ。聖徳太子の像にしても、子供のときの聖徳太子像とか、みんなきれいな像が多いけど、じつは兵庫県加古川市の鶴林寺には、十何歳のころの聖徳太子の像があるんです。秘仏なんだけれども、それはまさにヒッピー。ざんばら髪で、ほんとにもうアウトローのような、凶悪な像なんです。

 なんであそこまで藤原一族とか、そういう人たちが、聖徳太子の怨念を恐れたり、あるいは聖徳太子一族の扱いかたに対して社会の批判を恐れたのか?聖徳太子というのは、位の高いエリートなんだけれども、エリート層だけじゃなくて、大工さんとか船頭さんとか、いろんな職人層に、ものすごい支持者が多かった人ですね。だから、民衆の中での絶大な支持というのを、ある意味では、やっぱり恐れたんだと思います。

聖徳太子のブレーンだった渡来人、秦河勝

・(梅原)太子が重く任じたのは、小野妹子と秦河勝。しかし小野妹子もやっぱり、そんな豪族じゃない。いまでいえば、太子政権の外務大臣をしていましたね。もう一人は大蔵大臣です。太子によって大蔵大臣に抜擢されたのは秦河勝。

『人生は喜劇だ』  知られざる作家の素顔

矢崎泰久  飛鳥新社  2013/11/22

川端康成、「光る目」の内側

「世界に恥かしくない作品を書いて死ぬつもりです」 川端康成

鷹の目。間違いなく鷹の目だと思った。鋭く光っている。私は怖かった

 川端康成に会ったのは、たしかその日が3回目だった。いずれも伯母の佐藤碧子に連れられての面会だったが、鎌倉の川端邸が最初で、次が銀座の資生堂パーラー、そして新宿の洋食店オリンピックである。

疎開するそうだね。ささいなことはお国の為だと思って耐えなさい。体力をつけるには、好き嫌いは駄目です。戦争は必ず終わるから、その日まで毎日少しでも本を読みなさい

 私はオムライスとプリンをご馳走になった。東京での最後の外食だった。光る目がずっと見ている。

「祥夫くんは6年生だったね。この本をキミにあげます」

 岩波の少年少女向け文庫の『トム・ソーヤーの冒険』『三銃士』『レ・ミゼラブル』3冊だった。すべてはじめて手にする本だった。

・敗戦後間もなく碧子は私を鎌倉へ誘ったが、私は熱を出して川端家へは行かなかった。何より鷹の目に脅えていた私はホッとしたことを覚えている。子供に対しても容赦なくジッと鋭い目で内面をえぐる。全体的に尖った印象の川端康成が私はどこかしら苦手だった。

 次に私が川端康成に会うのは、1957年(昭和32年)9月に国際ペンクラブ総会が日本で開かれたときだった。当時は川端が日本ペンクラブの会長であった。私は新米の新聞記者として取材にあたっていた。お目にかかったけれど、個人的な会話はなかった。

 川端康成は翌年、国際ペンクラブ副会長に就任し、1968年にノーベル文学賞を受賞した。日本人作家としては最初の受賞だったが、そのころは目立った執筆活動もなかったことを考えると、論功行賞的な趣が強かった。どうして拒否しなかったのだろうと、不思議に思ったが、私はその意見を公表しなかった。勇気がなかったのである。

 翌年の正月、伯母の碧子と鎌倉の川端家へ行った。彼女の目的はお祝いを伝えることだったが、私は自分の目で川端康成を確認したかったので付いて行ったのである。他に客もいて、ゆっくり話すことはできなかったが、帰りしなに川端は静かな口調ではあったが、毅然と「世界に恥ずかしくない作品を書いて死ぬつもりです

 と言った。もちろん碧子に言ったのだが、ノーベル賞を重く受けとめている様子であった。

・アメリカのクノップス社の編集長シュトラウスは、文化大革命で中華人民共和国の若者たちが天安門広場で、古い本を反革命的と称して焚書していると説明した。三島と安部は抗議声明を作り、川端、石川、三島、安部の4人で共同記者会見を開いて中国政府にメッセージを訴える計画だったとわかった。

 結局、私も手伝うことになり、会場手配や声明文の印刷などをやった。シュトラウスは手持ち無沙汰にブランデーばかり飲んでいたが、一段落したとろで、青い目をしばたたせながら、クノップス社で発行する次なる日本の候補作家を推薦してくれるように2人に頼んだ。

 即座に、異口同音で挙がった名前は、「野坂昭如がいい。大江健三郎は少しも面白くない」だった。シュトラウスの来日目的は優秀でかつ売れそうな日本作家との契約だったのである。大江はアメリカ文学に近すぎると安部が言い、三島はそれに同調していた。

その翌日、私は思いがけずに川端康成にノーベル賞受賞後、2度目に会うことになった。疲れている様子だった。

 翌日、中国の新華社通信は、この4人の声明文を取り上げ、毛沢東主席による焚書禁止が発表されている。効果はあった。4人の個人的な忠告が功を奏したのだろう。中国の古典文学は命拾いしたのだった。

その後、川端康成は執筆に励んでいた様子だが、作品が発表されることはなかった。1972年4月16日夜、仕事場にしていた逗子マリーナのマンションでガス管を咥えて絶命している姿を、警備員とお手伝いの女性によって発見された。警察の調べでは「ガスが充満した室内で中毒死していた」とされ、「自殺、事故死の両面で捜査している」と報告された。それが、自殺説と事故死説に分かれる原因になったのだが、最初の発見者の証言によれば、自殺を疑う余地はまったく残されていない。

19701125日に市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺した三島由紀夫の葬儀委員長になり、翌年の東京都知事選挙では自民党の秦野章候補を応援して選挙カーにも乗った。

 本来政治的な動きをしたことのない川端には、前者はともかくとして、後者は多くの友人・知人から奇異の目で見られる結果となった。

とにかく精神錯乱の傾向がときどき現れたとする証言も少なくなかった。秦野章の選挙戦最終日に川端とともに選挙カーに乗った今東光は、「やあ、日蓮様ようこそ」と挨拶されてびっくりしたそうである。その際に「昨日は三島くんも応援にかけつけてくれた」とも言っていたそうである。年齢的にはアルツハイマーだったとしても不思議ではない。

 自殺は間違いないと思うが、芹沢光治良のように死ぬまで川端は事故死だと主張していた友人もいた。しかも、日本ペンクラブ関連の資料は、「自殺ではない」と証言している作家たちの記録だけが現在も保存されている。奇妙な話ではないか

 川端康成はノーベル文学賞を受けなければよかったのではないかと私は今でも思っている。

 あの時期、日本人作家では川端と同時に三島由紀夫の名前がノミネートされていた。もし三島が受賞していれば割腹自殺もなかったかも知れないし、さらに川端の自殺もなかったのではないか。

 私は二人の関わりの虚実を垣間見る思いがしてならない。川端は72歳で死んだ。

三島由紀夫、最後のメッセージ

「ボクはノーベル賞なんて欲しくない。人は誤解してるんだ。川端さんでよかったと本心から思っているし、もし次があるとしても、ボクは要らない」   三島由紀夫

・六本木交差点近くに「ミスティ」という男性専用の秘密クラブがオープンした。私はいずみたくに誘われて、会員になった。入会金と月会費が高いので尻込みしたが、毎回の使用料だけ払えば他はいずみたくが負担してくれるというので入ったのである。

 プール、サウナ、マッサージ、各種トレーニング施設の他に、ガウン一枚で遊べるプレイルームがあった。麻雀、ビリヤード、カードテーブルなど、それこそ至れり尽くせりだった。気に入って、ちょっと時間が空くと入りびたっていた時期があった。

 ある日、サウナ風呂の中で三島由紀夫にバッタリ出会った。互いに会員だとは知らなかったので驚いた。

・三島はズケズケ言う。その日は川端康成とのそれぞれの縁について話が弾んだ。

「ボクはノーベル賞なんて欲しくない。人は誤解してるんだ。川端さんでよかったと本心から思っているし、もし次があるとしても、ボクは要らない。太宰(治)と一緒で、もともと賞には向いてないんだよ」

 珍しく内面を吐露してくれた。負け惜しみではなく、ノーベル賞そのものに関心がなかったのだろう。その後もときおり「ミスティ」で会うことがあった。待ち合わせなどしたことはなかったので、いつもまったくの偶然だった。

 19701122日、つまり三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊へ突入する3日前の午後、私が「ミスティ」で麻雀をやっていたら、三島がプレイルームに入ってきて声をかけた。

諸君の不健康な遊び好きには感銘すら受けるけれど、いざというときのために肉体だけは鍛えておかれることをお勧めする

 敬礼するや、その一言を残して去って行った。私が三島さんにお目にかかったのは、その日が最後だった。

 3日後、何時間も三島由紀夫割腹自殺のニュースをテレビで見ていた。

これまでにも自殺を遂げた作家はたくさんいる。しかし、同じ自死でも突発的であるのと用意周到とでは違う。方法は似ていても差異はある。

 有島武郎や太宰治のように女性を道連れにする心中タイプもいれば、突然飛び降りてしまう人もいる。遺書を用意する人も少なくないが、遺族や親族がそれを隠蔽してしまうケースもある。川端康成は錯乱状態にあったのかも知れない。

大江健三郎の処世術

「まだ、その時期ではないと思う」  大江健三郎

同世代で同時代を生きた作家として、かつて私が特に注目したのは、小田実、石原慎太郎、大江健三郎の3人だった。

 1956年(昭和31年)、『太陽の季節』で芥川賞を取った石原慎太郎は、まだ一橋大学に在学中だった。ペニスで障子を突き破るという表現も斬新だったが、太陽族ブームを惹き起し、映画化され大ヒットした。

 2年後に東大生の大江健三郎が『飼育』で芥川賞を取り、この2人のデビューは日本の文学界に大きな衝撃を与えたのである。

 その直後に、小田実はアメリカ大陸を貧乏旅行し、帰国後すぐ『何でも見てやろう』を発表、これまた大ベストセラーになった。

折から日米安保が争点となり、3人はともに「若い日本の会」の発足に参加し、安保反対の姿勢を鮮明にしたのだった。


by karasusan | 2019-07-21 22:40 | 森羅万象 | Comments(0)