エーテル界の人類の源郷か?神の国だろうか?


by karasusan
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2018年 01月 07日 ( 2 )

『世界の中の柳田国男』

REモース、赤坂憲雄 編     藤原書店  2012/11/20

<『遠野物語』の表と裏―柳田国男と井上ひさし (クリストファー・ロビンス)>

<民族の受容・抹消・回顧>

・「遠野郷の民家の子女にして、異人にさらはれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり」

・「異人」という語は、文字通りには「異なった人」を意味するが、そのニュアンスには、幅があり、『遠野物語』においては、いくつかの特定の文脈において、それぞれ意味が限定される。上の引用では「異人」は「山男」の同義語である。山男は大まかに言って、西洋のブーギーマンのようなもので、残忍で人に似た形をしており、女や子供をさらって、二度と会うことも便りを聞くこともできない山奥に連れていってしまう。『遠野物語』の中で「異人」が登場する他の三例では、それぞれ天狗、外国人、山の神を意味する。この話がさまざまなニュアンスを持つのは、その文字通りの意味が、人間に似ていて、かつ(もしくは)見知らぬ存在すべてを包括するような、あいまいな範疇として機能し得るからである。

・「土淵村の柏崎にては両親とも正しく日本人にして白子(しらこ)二人ある家あり、髪も肌も眼も西洋の通りなり、今は二十六、七は同じからず、声細くして鋭し」

・このアルビノ(白子)の兄弟に対して「異人」の語は用いられていないが、その身体的特徴が「西洋の通り」である以上、彼らは観念上「異人」とみなされていることがわかる。声が変わっているだけでなく、話し方からも、彼らが、地域共同体の周縁の外から来たよそ者であることが示される。違いを示す烙印が付されるのは、人間に似てはいるが、奇形と言う異形の徴を示している者、あるいは認めがたいような差異を示している者である。

<周縁にいる山男山女>

・「遠野郷より海岸の田ノ浜、吉利吉里などへ越ゆるには、昔より笛吹峠といふ、山路あり。山口村より六角牛の方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢ふより、誰も皆恐ろしがりてしだいに往来も稀になりしかば、つひに別の路を境木峠といふ方に開き、和山を馬次場として今はこちらばかりを超ゆるようになれり。二里以上の迂路なり」。

・実際には地元民の大半は山に住んでおらず、広大な遠野盆地において主に農業や畜産、商事に従事していたのだが。

・柳田はまず「山人」という語は古くより用いられており、しばしば天狗や仙人などと結び付けられてきたと断定したうえで、この語義は誤っているとして、自分の解釈を示す。「併し、之なども意味を誤って居るので本当の日本語としては、我々社会以外の住民、即ち吾々と異なった生活をして居る民族と云ふことに違いない」この観念に立てば、山人は近代日本社会の主たる構成員ではなく観念の上では古代以来の日本人の先祖と結びつく。あるいは日本文化の大勢と関連するが明確に区別し得る地方文化の構成員もしくは少数民とみなされる。

『秘密結社』

綾部恒雄  講談社  2010/10/13

『異人・河童・日本人』

住谷一彦・坪井洋文・山口昌男・村武精一(新曜社)    87/11/25

(以下は上の2つの資料を合わしたもの)

<異人と祭祀的秘密結社>

・メラネシア又はポリネシアの社会生活の概念となるものはいわゆる秘密結社である。

・そのようなメラネシアやポリネシアの秘密結社の考察は、その様相、変型、フォークロア化の点で、日本文化史に与える暗示はきわめて深いと述べている。

・メラネシアの社会史より、民俗学で言う「異人」の特徴をまとめたもの。

1. 異人が幾度にか、季節を定めて訪来したこと。

2. 異人は先住民より亡魂、又は死者そのものと考えられたこと。

3. 異人は海の彼方から、来るものと信じられたこと。後には、山中の叢林より来るとも信じられるに至ったこと。

4. 異人は畏敬されつつも平和的に歓待されたこと。

5. 異人は食物の饗応、殊に初成物を受けたこと。

6. 異人は海岸地に住まずして山中の叢林に住みしこと。(インドネシアの神話でも大体支配民族は天空からやってくるのです。あるいは海の彼方からもやってきて、土地の娘と結婚するといわれています。)

7. 異人はdual organization (二つの象徴的二元論の原理)の構成の原因となりしこと。

8. 異人が土民の女と結婚する必要ありしこと。

9. 異人とその女との間に出来た子供が特殊な社会的宗教的性質を有せしこと。

10. 異人は入社式、男子集会所の起源をなしたこと。

11. 異人はその異人たることを表徴する杖、及び「音」を有せしこと。

12. 仮面が男女二つあること。女異人が山中に住むということ。(山中というものは、人間の世界を超える原世界としてイメージされた。人間の世界と人間を超えた世界をつなぐ空間である。)

13. 異人が訓戒、悪事摘発をなし、豊作をもたらし、又はもたらさしめんことを任務としたこと。

14. 異人が季節殊に収穫季、冬至に関係したこと。 

15. 異人は季節が来ると、その出現を期待されたこと。

16. 異人若しくは神は常に村にとどまらないと信じられたこと。(「おどまぼんぎりぼんぼんからさきゃおらんど」というのは子守の歌と教えられていますが、外から訪れた「異人」の歌だ、という説があります。)

17. 異人の出現の際は女子、子供は閉居したこと。

18. 異人のタブーが財産の起源となったこと。

19. 異人がフォークロア化して遊行歌舞伎団となったこと。(歌舞伎の成立の根源)

20. 遊行人は異装し、杖と音とを有し、饗応を強制し、或は掠奪を敢えてし得ること。

21. 遊行人が神話、神の系譜を語り、或は之を演技で表現すること。多く季節と関係して。

22. 遊行歌謡団から伊達者(manwoman)が発生したこと。(歌舞伎の起源)

23. 彼等は民間信仰に於いては、侮蔑されつつも亦高き階級に属すとされたこと。

・すでに触れたように、岡の考察はメラネシアの社会史を範例として行われたのであるが、これらの異人にまつわる表象、状況、発展について暗示された諸項目は、アフリカの祭祀的秘密結社の成立の事情を辿ることによっても、確認することができるのである。

                                                                                     

『妖怪文化入門』

  小松和彦      角川学芸出版   2012/6/22

異人・生贄

「異人」とはなにか

・「異人」とは、一言で言えば「境界」の「向こう側の世界」(異界)に属するとみなされた人のことである。その異人が「こちら側の世界」に現れたとき、「こちら側」の人びとにとって具体的な問題となる。つまり「異人」とは、相対的概念であり、関係概念なのである。

 ところで、「こちら側」の人びとが想像する「異人」は、おおむね次の四つのタイプに分けられる。

① ある社会集団(共同体)を訪れ、一時的に滞在するが、所用を済ませればすぐに立ち去って行く「異人」。こうした「異人」の例として、遍歴する宗教者や職人、商人、乞食、観光目的の旅行者、聖地への巡礼者などを挙げることができる。

② ある社会集団(共同体)の外部からやってきて、その社会集団に定着することになった「異人」。こうした「異人」の例として、戦争や飢饉などによって自分の故郷を追われた難民、商売や布教のために定着した商人や宗教者、共同体を追われた犯罪者、「異国」から奴隷などとして、強制的に連行されてきた人びとなどを挙げることができる。

③ ある社会集団(共同体)が、その内部の成員をさまざまな理由で差別・排除する形で生まれてくる「異人」。前科者や障害者、金持ちや貧乏な人などが、この「異人」の位置に組み入れられることが多い。

空間的にはるか彼方の「異界」に存在しているとされているために間接的にしか知らない、したがって想像のなかで一方的に関係を結んでいるにすぎない「異人」。海の向こうの外国人や、はるか彼方の「異界」に住むという「異神」たちが、こうした「異人」のカテゴリーを形成している。

こうした種類の「異人」たちが「異人」とみなされた社会集団の問題になってくるのは、当該集団がその集団としての「境界」を意識し、その集団の構成員とそれ以外の人びとを区別しようとするときである。人びとは「我々の集団・仲間」を作り出すために、その<外部>に「異人」を作り出すのである。この「異人」を媒介にして集団は結束し、その「異人」に対処する作法を編み出し、ときには歓待し、ときには差別や排除に及ぶことになる。

異人論の先駆的研究として位置づけられる研究は、折口信夫のマレビト論であり、岡正雄の異人論であろう。

 折口の「マレビト」概念は彼自身が厳密な定義をおこなっていないこともあって難解であるが、その概念は二重構造になっていると思われる。一次的なマレビトは来訪神のことであり、二次的マレビトが共同体の外部から訪れる祝福芸能者のたぐいとして想定されている。共同体の人びとはこれと祝福芸能者を「神」そのもの、もしくはその代理人とみなすことによって歓迎し、その祝福を受けることで共同体の繁栄が期待されたのであった。すなわち、共同体の来訪神信仰との関係のなかで「異人」を理解すべきであるということを示唆したわけである。

<異人・生贄・村落共同体>

すなわち、「異人」をめぐるテーマを検討していくと、その一角に「生贄」のテーマが現れ、逆に「生贄」のテーマをめぐって考察を進めていくと、その一角に「異人」のテーマが現れてくるからである。そして、この二つのテーマを媒介しているテーマが、「人身供犠」(人身御供)もしくは「異人殺害」という説話的・儀礼的モチーフであると言えよう。

旧来の神に代わって山王社に祀られることになったのは、いかなる「神」なのだろうか、ということである。ここでの文脈で言えば「農耕神」としての山王神ということになるだろう。「しっぺい太郎」の昔話でいえば、外部からやってきた旅の僧などの「異人」や「人間の側の犬」が、そこに祀られていることになるはずである。

「異人」と「家」の盛衰

・その物語の一つが最近まで民間に流布していた、次のような物語である。これを私は「異人殺し」伝承と名づけた。「異人殺し」伝承は、怪異・怪談そして恐怖といった要素がたっぷり詰まった伝承である。

 旅人(六部や座頭、巡礼、薬売り)が、とあるムラのとある家に宿を求める。その家に泊めてもらった旅人が大金を所持していることに気づいた家の主人が、その金欲しさに、旅人を密かに殺して所持金を奪う。この所持金を元手にして、その家は大尽になる。だが、殺害した旅人の祟りをうける。

<●●インターネット情報から●●>

・柳田國男をウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)でみますと、

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)731 - 1962年(昭和37年)88日)は、日本の民俗学者・官僚。現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。没後に正三位勲一等。当時の池田勇人首相が「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が供えられた帝国憲法下の農務官僚で貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官に就いた。

「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。


■■■ 私が思うこと、聞いたこと、考えること ■■■

柳田國男に関係する本は現在でもよく出版されているようです。民俗学とは関係のない私たち一般人は、当然詳しくはありませんAmazonに「柳田國男」といれますと336件の書籍、「『遠野物語』」といれますと463件の膨大な書籍がわかります。この当時は、「宇宙人の概念」がメディアにほとんど登場していない頃のようです。当時の警察が「異人」をどの程度、把握していたのかは不明です。異人はオリオン星人だったのかもしれません。平家がプレアデス星人の末裔で、源氏がオリオン星人の末裔と指摘されています。「異人」情報は、昔から警察のごく一部が握っているのかもしれません。柳田国男は当時の警察の「異人」の情報を調べなかったようです。柳田国男は『遠野物語』は民衆の作り話ではなく事実だと述べています。

・(2017/12/16)、「米紙ニューヨーク・タイムズは16日、国防総省が「高度航空宇宙脅威識別プログラム」と呼ばれる取り組みでUFOの調査を2012年まで5年間行っていたと報じた。今回公開された映像も調査の対象だった」と報道されました。アメリカ空軍の士官学校の教科書には宇宙人の種類が載っていると指摘されています。アメリカ空軍は133種類の宇宙人を確認しているそうです。戦後、米軍内部では異星人が混じっていたいう話もあるようです。そこで、公開する情報は、アバブ・トップシークレットとは全く別の情報になるようです。宇宙人情報を公開すると主権が危うくなるともいわれます。UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。イルミナティの空飛ぶ円盤はタイム・トラベルができ、「米軍の将軍が同乗していた」そうです。「いざ就任すると、この話題には関与せずという概要が出されるのだ。こうした態度は“大統領の黙秘症候群”と呼ばれている」と語られています。「政府の中に政府があってアメリカ大統領といえどもコントロールできない」といわれます。


柳田國男や『遠野物語』は、外国人も研究の対象にしているようです。『遠野物語』や遠野地方に興味を持つ外国人も増えているのかもしれません。やはり外国人の目からみた評価は、日本人のそれと違って、特色があるようです。「柳田は常民の目から、戦後の日本を高く評価していた」ということです。「農地改革」も敗戦でないと実現ができないことだったようです。また、戦後の占領軍の占領政策が、日本の「民主化」をうながしたことは事実のようです。日本国憲法にしても占領軍から与えられたものと酷評するむきもありますが、ポジティブな面も大きかったようです。しかし、現代では世界基準から見て「普通の国」に日本を変えていく力が強まっているようです。日本が「普通の国」になっていくということは、自衛隊員の死傷者が増えていっても「やむをえないこと」と認識することのようです。しかし、歯止めを失うとアメリカの要請もあり「限界のない状況」になるのかもしれません。アメリカも「世界の警察官」として、多くの米兵の死傷者を出してきたからのようです。「普通の国」への方向に進みますと、米軍との共同作戦による歩兵の大量出血が強要されることになるでしょうか。

・中世ヨーロッパの伝承にも、多くの「取り換え子」の伝説があるようです。また中世のドイツでは領主の多くが異人だったそうです。実の親を探している異星人の物語や話は少なくないそうです。ファンタジー物語も実の親を探し求めて、長い旅に出るというのがあるそうです。「かぐや姫」のように異星人か神様の子供をもらった伝承も多いそうです。人間の感情や感覚に反する世界が異人の世界だそうです。人間を創った山の神には人間の感覚が通じないのでしょう。地球の人間が、あまりにレベルが低すぎて、「宇宙連合」に参画できないと従来から言われてきたそうです。

・異人との異類混血のパターンも様々な形態があるようです。スター・ウォーズの原因が異類混血であるという説もあるそうです。異星人のアブダクション(誘拐)も人体実験のほかにいろいろな理由があったようです。「あのグレイも壁を透き通るようにして部屋に侵入してくる」そうです。超太古に神々が人間の女と交わり、人々の数を増やしていったという神話もあるそうです。パラレル・ワールドに住む宇宙人、天国に出入りし転生と憑依を自由に操るシリウス星人の殖民星が、地球だそうです。ネガティブなシリウス星人の地球支配があまりにも巧妙なので、しょっちゅう戦争が起こるともいわれます。

・これらの異人と言うのは、天狗などを部下にして使う、異次元のオリオン星人のように思えます。異次元の「あの世」とこの世を様々な形態で往来しているようです。日本には太古から、プレアデス星人やリラ星人、シリウス星人などが飛来していたようです。「源氏がシリウス星人の末裔、平家がプレアデス星人の末裔」と言う説もあります。オリオンやプレアデスに多くの日本人が住んでいるという法螺話もあるそうです。ネガティブなシリウス星人は邪悪なオリオン星人とも言われます。オリオンの邪体霊がモンスター・タイプの生物や人間を遺伝子操作などで作ったそうですが、それで神に嫌われたそうです。ネガティブなシリウス星人やオリオン星人は堕天使ルシファーのグループのようです。意外に思いますが、堕天使ルシファーやサタン(悪魔)と言われるリラ星人は、遺伝子科学者のグループの名前だそうです。彼らはある種の遺伝子実験に反対したグループで、それ故に対立抗争が起きたようなのです。

・ハリウッド映画に『猿の惑星』と言う映画がありましたが、猿顔で人間タイプの異星人がいるそうです。ケンタウルス座α星人は、猿が人間になった外見の者もいるようです。インドの神話でも猿顔の神様がいます。こういった種族との遺伝子操作による実験に抵抗する勢力があるそうです。リラ星人のコンタクティのクロード・ボリオン・ラエルは、米国でクローン実験を行い社会問題を起こしたそうです。コンタクティの中にはキリスト教会の道徳に反する者もおりトラブルになるようです。未来透視のマクモニーグルによると「伝子操作には問題もつきまとう。2022年から2028年の間に、ある女性科学者は自らの肉体を使って悪夢のような存在を生み出し、法廷で裁かれるだろう(生命はその後も生き続ける)」とのことだそうです。遺伝子操作でモンスターが生まれることを政府は厳禁することでしょう。

・ポリネシアなどの南太平洋の島々の異人や神人の伝承は、多いのですが、それに似た伝説は、世界中にあるそうです。つまり、異人や神人が古代の原住民の生活様式のしきたりの起源を創ったようなのです。性的な習俗も異人が始めて、人々に教えたともいわれます。

・南太平洋諸島の多くの伝承やUFO目撃談、カーゴ・カルトなどの存在は、異人が原住民に部落生活、社会生活などのしきたりを教えたことが窺われます。

日本でも「異人」の伝承は多いのですが、柳田國男が明治43年に発表した『遠野物語』の異人の伝説には、明治時代の頃の遠野地方にうごめく異人の姿があります。「真っ赤な顔の異人」は目立ちましたが、現代では、異類混血等で一般人と区別がつかないようになっているのでしょうか。現代の異人の情報もメディアで報道されないと、私たち一般人には、何も理解できないでしょう。「遠野郷の民家の子女にして、“異人”にさらわれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり。-遠野物語第三十一話」、「黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。-遠野物語第八話」という「異人」はオリオン星人だったようです。

・「人は皆、記憶喪失の異星人だ」そうですので、記憶の甦った人が異星人で、その差は少なくなっているようです。異次元に存在するといわれている異星人の存在は、精神世界の話になってくるようです。「異星人はとうに地球を訪れていて、地球人社会にまぎれ混み、密かに地球と我々の文明を監視・調査し社会生活をしている」そうですが、現代のメディアでも把握できないようです。「ゼータ・レチクル星人のグレイと、オリオン座のリゲル人の長身のグレイ、オリオン座の有翼のドラコ族、恐竜から進化した地球のレプトイド(恐竜人)等」が、エリア51等のアメリカの秘密基地で活動しているともいわれます。エリア51については、アメリカ政府は、その存在を一度も認めていないそうです。グレイには、「ビーガン。シリウスA人の遺伝子から作られたグレイ」、「ゼータ・レティクリ1。地球人監視のためリゲル人が作ったグレイ」、「ゼータ・レティクリ2。遺伝子操作で作られたグレイ。爬虫類人に奉仕」等がいるといわれます。宇宙人「グレイ」の故郷もベテルギウス(オリオン座の恒星)なのだといわれます。

・江戸時代に天狗に連れられて異次元世界に行った仙道寅吉という少年によると、「天狗は位が最下層であり、最上位の階層には山人や山の神がいる」そうです。またオリオン星人はエジプトのピラミッドにも関係しており、厳格なピラミッド状の階層組織があるそうです。神々には厳格な階層があるといわれています。それに対してプレアデス星人は比較的緩やかな階層社会があるようです。天狗や異人も人間化して、ウォークイン(憑依)やワンダラー(転生)のように様々な形態で、社会生活をしているようなのです。「神々は憑依などで市井のひととなり普通の生活をしているので誰も識別できない」そうです。「遥かに進化した高次元の高等知性体・異星人は、人間の肉体や精神体に憑依するので誰も識別できない」ともいわれます。「はるかに進化した天使のような宇宙人は、人間の守護霊や背後霊なのだろうか」ともいわれます。「宇宙人と普通の人間を区別できなくなっている」時代だそうです。「はるかに進化した宇宙人が人間の精神体に侵入してくる時代だ」そうです。

・米国に登場したメン・イン・ブラック(黒衣の男たち)はオリオン星人だそうですが、「オリオン星人は階級意識の強い宇宙人種族」のようです。グレイのようなバイオロボットを召使・部下に使っているのかもしれません。メン・イン・ブラック(黒衣の男たち)は、「この世のものとは思われない美男子」ではなく容貌魁偉か人間とは少し違った容貌だったそうで、UFO研究者を脅す悪者のイメージでした。しかし、ハリウッド映画の「MIB・メン・イン・ブラック(黒衣の男たち)」では、宇宙警察のイメージでした。米国が秘密協定を結んだのはラージノーズグレイというオリオン星人といわれています。オリオン星人は人類に5万年進化しているといわれ、「人間の魂の交換」ができるようです。奇妙なことに、オリオン人はかっては琴座からの移民である人間らしい存在だったが、その後レプティリアンに征服されてしまったともいわれます。「爬虫類的異星人(レプティリアン)も人間タイプは知性的な顔をしている」とクラリオン星人のコンタクティ、イタリア人のマオリッツオ・カヴァーロが述べています。そして「日本の河童はグレイの一種で、現在も海底基地にいる」とも語っています。

・オリオン星人のトップは、いわゆる神々なのかもしれません。神々といっても魔神なのかもしれません。魔神の存在が「人間が障害者の子どもを持つ原因だ」という説もあるそうです。「河童=宇宙人」説が出始めてきておりますが、「異人=宇宙人」説はまだのようです。そもそもアバブ・トップシークレットのためか、「宇宙人やUFOの存在を主張する学者」はまだ少ないようです。

・米国のように国家の総力を挙げて異星人文明や超テクノロジーを入手すべきでしょうか。日本でもプレアデス星人とのコンタクト話があるようですが、国家の総力を挙げて「プレアデス星人の文明や恒星間飛行技術の「超テクノロジー」を入手すべきだと思いますが。宇宙連合とコンタクトすれば神々ともコンタクトできるらしいのですが、アバブ・トップシークレットのためその存在も否定されているようです。「エイリアン・テクノロジー・リバース・エンジニアリング(宇宙人科学技術工学)」は米国の一人勝ちでしょうか。ちなみにハリウッド映画「猿の惑星」のような顔が猿の宇宙人(神)も存在するそうで、インド神話でも猿の神様(ケンタウルス座α星人)の神話があるようです。昔は猿の神様(ケンタウルス座α星人)との異類混血が恐怖であり、人身御供とされたのでしょうか。

・私たち一般人は、学者ではないので日本におけるさまざまな「神」についても詳しくは知りません。「ウィキペディア(フリー百科事典)によりますと

山王信仰(さんのうしんこう)とは、比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた神道の信仰である。日吉神社・日枝神社(ひよしじんじゃ、ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、大山咋神と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社ある。神仏習合期には山王(さんのう。山王権現、日吉山王など)と称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。猿を神使とする」とのこと。猿の神様(ケンタウルス座α星人)とのコンタクトもあったのかもしれません。

・「異人」の正体が解らないのは、ウォークイン(異星人の憑依、人格転換された人間)やワンダラー(転生)のような人が分からないのと同じではないでしょうか。フリーメーソンのようにその実体は不明で手法は巧妙なようです。フリーメイソンリーは発祥がシリウス星人とも関係があったといわれ、現在では表向きは秘密結社ではなく、一般に公開されていますが、その根本的なところは秘密のまゝだそうです。「フリーメーソン結社はこの大地が創出されるよりずっと前から、さまざまな太陽系をめぐって、存在していたのである」と指摘されています。金星の神々は地球に到着するやいなや、イニシエーションのためのフリーメーソン本部を設けた、といわれます。

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・ブログ名称: UFOアガルタのシャンバラ

日本は津波による大きな被害をうけるだろう

・第2のブログ名称:UFOパラレル・ワールド

「神の国か?」「人類の原郷か?」 「天上のエルサレムか?」・・・・・・・・・

「パラレル・ワールドに住む宇宙人、天国に出入りし転生と憑依を自由に操るシリウス星人の殖民星が、地球か?」、「ネガティブのシリウス星人の地球支配があまりにも巧妙なので、しょっちゅう戦争が起こるのだろうか?」

「金髪碧眼のノルディックが住んでいたアガルタのシャン発表しましたバラ情報の集大成を目指す・・・・・・・・・・」「金星蛇人と火星霊人の戦争はその後どのように展開したのだろうか」
「日本民族の神話の原郷『高天原(たかまがはら)』は、『都市型の超巨大宇宙船』なのか!?」「平家がプレアデス星人の末裔で、源氏がオリオン星人の末裔なのか」
「小人族のグレイの母船に同乗する金髪碧眼のノルディックは、”悪魔の王””ルシファー”なのか?!」

「円盤は神人や異人、悪魔の乗り物なのか!?」「天使は神の秘密諜報員なのか」「神は最初のフリーメーソンなのか」

UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象なのか。UFO問題とは、人間にとっての死の問題を解くことなのだろうか。UFOはフリーメーソンの創作なのか」

「全宇宙を創ったという“虹の神々”も地球に来ているのだろうか」

「イルミナティなどのフリーメーソン組織に入ると神に会えるのだろうか」「金星の神々は地球に到着するやいなや、イニシエーションのためのフリーメーソン本部を設けたのだろうか」

「国際連合の設立に動いたキリストの星、アプ星人とは」

「人は皆、記憶喪失の異星人だろうか」

「はるかに進化した天使のような宇宙人は、人間の守護霊や背後霊なのだろうか」

「セドナ上空に見えないエーテルのシティが滞空するのだろうか」

グーグルのブロガーにも書いています→UFOパラレル・ワールド


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by karasusan | 2018-01-07 18:40 | 森羅万象 | Comments(0)




『虎山に入る』


中沢新一   角川書店  2017/10/27





「内側から」描かれる歴史—―柳田國男『海上の道』


・九学会連合大会(1952年)で話された柳田國男の「海上の道」という講演は、その場にいた多くの研究者に衝撃を与えたばかりでなく、その後活字になってからは、一般の人々にも少なからぬ影響を及ぼし、ここから日本人の起源をめぐる探究が、新しい段階に入ることになったことはまちがいない。柳田國男の残した多くの学問的仮説の中でも、この講演で提示されたものほど射程が大きく、たくさんの領域を巻き込んで、後世に実り豊かな成果をもたらしたものも少ない。このとき柳田77歳、おそるべき気迫である。


 この講演で柳田國男は、稲作民族としての日本人の南方起源説を提出した。稲作の技術をもった中国江南地方の人々が、宝貝という貴重品を求めた海上に乗り出し、島伝いについに日本列島にたどり着いた、という壮大な仮説である。



・それにもまして興味深いことは、その頃兵士としてかの地に赴いた日本人のふつうの庶民の証言類や文学者の書き残したものや流行歌(ここには戦後まもなくはじまった水木しげるの漫画表現なども含まれる)などを調べ直してみると、そこに「原郷としての南方」という幻想が、当時の日本人の無意識の中に強くいだかれていたことが感じられるのである。南方への軍事的進出はむろん政治経済の次元に属している問題だけれど、その行動の奥に、日本人の原郷としての南方という幻想が潜んでいたことを否定するのはむずかしい。



かわって読書界で流行したのが「騎馬民族説」である。民俗学者の江上波夫らによって主張されたこの学説は、日本列島の先住民が騎馬の軍団とすぐれた鉄の武器を携えた北方からの移住者によって征服されることによって、日本という国ができたことを主張した。騎馬軍団の遺構や征服戦の跡が発見されていないことなど、老古学的にはきわめて薄弱な根拠しかもたない説であるにもかかわらず、この説がいっとき一世を風靡したのには、戦後アメリカの占領下にあった日本人の自虐的心情が映し出されている。


 


そういう時期に、柳田國男のこの講演はなされたのである。柳田國男は人々の目をふたたび南方に向けて開こうとした稲作の技術を携えて日本人の列島にやってきたのは、いったいどのような人々であったのか、彼らが稲作りの技術といっしょに運んできた宗教や習俗はどんなものだったか、こうした問題の解決を、柳田國男は南方から島伝いに列島に渡ってきた人々のうちにみいだそうとした。それほどの航海に乗り出していった人々は、航海技術に巧みな「海民」でなければならないはずである。彼らは稲作の技術も持っていて、農民の先祖となった人々でもある。海民にして農民—―それが日本人の原初の姿であると、ここでは考えられている。



そのさい柳田國男は世間でよく言われているような、朝鮮半島からの移住者が、最初に稲作の技術をもたらしたという説をとっていない。九州北部の弥生系の人々の遺構が、朝鮮半島南部の稲作文化との多くの共通点をしめしているにかかわらず、それよりさらに以前におこったはずの出来事に、柳田は照準を定めている。柳田國男は、日本列島における稲作が、稲作技術そのものの発祥の地である、揚子江下流域から直接にもたらされたと考えたのである。


 当時としてはとても大胆なこの考えは、現代の考古学の知見に照らしてみても、多くの真実を含んでいる。



ムスビの神による人類教


それはマレビトが境界に関わる神だからである。海人は海の彼方を見つめながら、そこに魂の原郷を見ていた。人はそこからやってきて、そこへ帰っていく。だからそこは、これまでこの世にあらわれたすべての先祖がいる場所であるし、これから生まれてくるすべての生命の萌芽が集まっている場所でもある。日本列島にたどりついた海人が、内陸部に入って住むようになると、その魂は山の奥に考えられるようにもなった。


 しかし、その場所は現実の空間の中では、どこそこに「ある」とも「ない」とも言えない。現実の空間にとっては「ない」も同然だが、その原郷がなければ現実の世界もなくなってしまうような場所である。そこで人が唯一できることと言えば、目に見えない境界を越えて、これらの世界に渡ってくることによって、原郷の息吹を伝えてくれるマレビトのような存在を考え、考えるだけでなく表現までしてみようとすることである。



マレビトはこの世ともあの世とも言えない境界上の存在である。いやマレビトが境界そのものの表現になっている


・こうして日本の神社体系に属する神々が、純粋に霊的な存在(こうした神々は名前しか持っていない)であるのにたいして、マレビトの概念を表現する神々は、植物装置で全身を覆ったり、おそろしげな仮面を着装して登場してくることになる。そうして出現したマレビトは、人々の前で舞い、踊り、身体から音楽を出す。マレビトは境界性そのものの表現として、物質性と抽象性と具体性、絶対の沈黙と音楽性といった、さまざまなレベルの異なるふたつのものをあわせ、まじりあわせている。その意味では、マレビト神自身がうず潮なのである。



しかし、日本人の神の概念には、マレビトの概念では説明しきれないものがある折口信夫の発展させていったマレビト論にたいして、柳田國男が深い違和感を抱いていたことは、よく知られている。2人の日本人の神についての考え方の違いは、戦後まもなくしてあらわになった。


 


 その頃、文化人類学者の石田英一郎が司会者になって、柳田國男と折口信夫を招いて雑誌のために対談をしてもらった。そのとき日本人の神の観念などという重大な問題について、2人のあまりにも違うイメージを抱いていたことがあらわとなって、多くの読者を驚かせたのである。それについて国文学者の益田勝実はこういう風に書いた。


 日本の神の祖型を、<祖霊>とみる柳田國男と、<来訪するまれびと(ストレンジャー)>とみる折口信夫—―あの深く尊敬し、いとおしみ合った師弟は、晩年になって、おたがいの神についてイメージをぶつけ合ってみて、その根深い違いに驚いたのだった。片や死霊に、片や生身の人間にと、2人の巨匠の神の祖型の見つけ方の違いもさることながら、同時に、この2人の民族学的方法が、思わず知れず飛び越えてしまったものについても、わたしは考えこまざるをえない。



・じっさいこの対談で、柳田國男は死霊とも言うことのできる祖霊の中に、神の祖型を見出しているのにたいして、折口信夫のほうは遠くから寄り来るストレンジャーのイメージの中に、神の祖型があると主張して、おたがいが譲らなかった。しかしよく考えてみると、マレビトも祖霊であり死霊なのである(このことは南島におけるこの神の出現のじっさいに立ち会ってみるとじつによくわかる)。ただその祖霊=死霊が活動する空間の構造が、2人の間では違っている。



だからマレビトの中には、死霊と生身の人間がぶつかりあって、まじりあっている。ところが柳田國男の考える神の祖型においては、なまなましい死霊がしだいに清らかな祖霊に浄化されていくという思考の運動のほうが前面に出てくる。山裾に埋葬された死者の霊は、はじめのうちは死霊として山に留まっているが、子孫たちに大事にされているうちに、しだいに静かで清らかな霊に浄化され、村の背後の山の上から子孫の暮らしを見守る神へと変化をとげていく。そのような祖霊の考え方を祖霊として、しだいに神道の神の考えは育っていった、と柳田國男は考える。



私は柳田國男と折口信夫が取り出してみせた2つの神の考え方のどちらが、ほんとうの日本人の神の祖型であるか、などという考えはとらない。2人がそれぞれに取り出してみせた2つの祖型が「あわさり、まじりあって」、日本人の神はかたちづくられてきた、と私は考えている。その意味では、2つの祖型ははじめから相補的であり、古代や民俗の世界では、この2つが一体となってシステムをつくり、それが複雑な信仰のかたちに展開していた。


 ところが近代になって、国家に結びついた神道というものがつくられると、境界性の側面がひっこめられて、しだいに均質性の原理に単一化された空間の側面ばかりが、前面にあらわれてくるようになった。



このことは、とくに南東の神々のことを調べてみると、はっきり見えてくる。そこでは重要な神々はいずれも祖霊となんらかの関係を持っている。村の中には御嶽と呼ばれる聖地があって、女性の祭祀者がお祀りをおこなっている。御嶽の神さまは村を創設した先祖の霊と深い関係を持っていて、場所によっては御嶽自体がそういう先祖の御殿だという考えも保たれている。先祖霊でもある御嶽の神は、森厳な不入の森の中にいて、村の生活を守ってくれているのである。



ところがマレビトの出現の日が近づくと、すべてががらっと様相を変えるのである。それまでは御嶽の神と女性祭祀者を中心にして動いていた村の暮らしが、ドラスティックな変化を起こす。共同体の機能が停止して、全体の組織の組み替えがおこなわれる。マレビトを迎えるにふさわしい特別な構造への、生活全体の組み替えがおこなわれるのである。マレビト用の新しい組織は、本土で発達した「講」や「座」に対応するもので、共同体の構造原理とは異なるより自由で平等主義的な「組合」の組織へと、自己変容をとげていく。


 こうしてできあがったマレビト組合が厳かに待つ場所に、森の中から仮面の神が出現してくるのであるマレビトは魂の故郷であるニライカナイから、境界を踏み越えて、こちらの世界にあらわれる。マレビトの身体には物質性があり、その体でもって踊り、走り、予祝の呪言を語ってから、ふたたび境界の向こうに去っていく。マレビトはあらゆる意味で境界的である。


 この神さまの中には、物質性と霊性、身体と名前、「ある」と「ない」、不浄と清浄、パロール(女性祭祀者がおこなう神への呼びかけ)とエクリチュール(杖で打つ、泥を塗るなどして、身体への刻み付けをおこなう)のような、さまざまなレベルでの異なるもののまじりあいがおこっている。その境界的な神を、同じように自分を境界的な形に変容させた人間の側のマレビト組合が、迎え入れ歓待するのである。





『熊を夢見る』


中沢新一   角川書店  2017/10/27





小さな、過激な本—―柳田國男『遠野物語』


・大学生の頃、私は南九州の甑島(こしきじま)で、民俗学のフィールドワークをおこなっていたことがあるが、その時、リュックサックの中にはいつも、この『遠野物語』の文庫本を、突っ込んで歩いていた。


 理由は2つあった。1つは気分の問題に関わっていた。その頃の私にとって民俗学は、地球上から永久に消え去ろうとしている一つの文明の、最後の目撃者になるという、今考えるとちょっと気恥ずかしい、ヒロイズムを満足させてくれる学問として、意味をもっていた。



・そういう私にとって、「この書を外国に在る人々に呈す」という、じつに過激なエピグラフを冠したこの本は、ほとんどバイブルみたいな意味をもっていた。『遠野物語』を書いた頃の若い柳田國男にとっては、自分のまわりにいる知識人たちの多くが、まるで「外国にある」人たちのように見えていたのだろう。日本人なのに、この列島で長い時間をかけて醸成されてきた、深々とした伝統の暮らしや物の考え方に、目をむけることがなく、いたずらに西欧の文明を促成栽培しようとしていた、当時のエリートたちに反発をいだいていた彼は、『遠野物語』という時代の流れに逆行するような不思議な本を出版することで、自分の独立精神を表明したかったのだ。私は、そういう柳田國男のほとんど反時代的な独立精神にあやかりたい一心で、いつもこの本を持ち歩いていた。



・柳田國男がこの本を出版した当時は、彼がそこに描いている世界は、まだ生々しい呼吸を続けていた。近代日本は、それを残酷に否定しながら、前進しようとしていた。だから『遠野物語』の出版という行為は、激しくまた生々しい批判の意味をもつことができたのである。つまり、『遠野物語』に描かれている世界は、まだ前進しつつある近代との、激しい最後のたたかいに、敗北しつつあったのだ。



『遠野物語』の出版は、彼にとって、生々しいたたかいとしての意味を、持っていた。民俗学を勉強していた時、私はこの学問に、若い柳田が直面していたような、緊迫した感覚を保ちつづけていたい、と感じていた。『遠野物語』は、そういう私にとっては、緊迫した状況の臨場感を再現する、すぐれたルポルタージュ文学であり、たたかいへの意志をエレガントな形で表明する、みごとなマニフェスト文学として、大きな意味をもっていた。



・もう一つの理由というのは、『遠野物語』がはっきりと、言葉と大地のつながりを語っていることに、関係している。この本に集められた話のほとんどすべては、具体的な土地に結びつけられて語られている山男が現れたのは、六角牛山のどこの地点であるのか、座敷童子がいる家は、どこの村の誰の家なのか、神隠しにあった子供が消えてしまったのは、どの村のどの土蔵の陰なのか、どの話もそれをはっきりと確定しようとしている。



・じっさい、村でフィールドワークをしていると、そのことが明確にわかってきた。村の人々は、たくさんの物語を伝承していた。しかしそこには、ポータブルなものとして、よそから運び込まれた物語と、具体的な土地に内属している物語との、明瞭な違いが存在している。人々はポータブルな物語は、エンターテインメントとして楽しむが、土地に所属している物語は、自分たちの歴史感覚を表現するものとして真剣に語ろうとしている。抽象化されない、生きられた時間が、そこには息づいているのだ。


 私は『遠野物語』を、村の人々のいだいていた、そういう歴史感覚を表明する物語として、読んできた。いままでの歴史学は、柳田國男がこの本をとおして強調しようとした、そういう歴史感覚に触れてこなかった。自分の国の歴史を語りながら、そういう学者たちは、やっぱり「外国に在る」ままなのだ。柳田國男は、この小さな本をとおして、そういう歴史学を転倒しようとしたのである。その意味でも、この本は、じつに過激な書物なのだ。



ダンテのトポロジー


ダンテは西暦1300年の48日夕刻から翌9日の日没直後までの、ほぼ一昼夜をかけて地獄への旅を体験している。そこから煉獄、天国への旅が途中とぎれることなく連続しておこなわれていることから推定すると、『神曲』という作品のもとになった驚異の体験は、地獄下降のその日から数えておよそ2日か3日の間に起こったと考えることができるこれはシベリアのシャーマンが成巫のためのイニシエーションにおいて真正のトランスに入り、再び意識を取り戻すまでに要する時間にほぼ等しい。



・この地獄の構造を下方に向かえば向かうほど、そこで苦しんでいる人々の魂と身体は、物質性の重みに引きずられ押しひしがれている。身動きもままならず、あらゆる運動性が滞っていく。漏斗状の構造の最深部において、ダンテたちは傲慢の大悪魔(元大天使)ルシフェルの姿を見る。逆さになったルシフェルは氷漬けされていて、わずかに口や翼を動かすことしかできないそのルシフェルの毛脛に取りすがって足へとよじ上って、脇を通り抜けるとき、ダンテたちはつぎのような奇妙な動きをとることによって、地獄から抜け出ていく。



そのルチフェロのふとった腰の骨のあたり、正しくは腿のつけ根へ


わたしたちがたどり着いたとき、


師はやっとの思いで、苦しそうに


引っくりかえって、頭を足の方へさかさまにつけて、


毛にしがみついて昇るようなので、


わたしはまた地獄へ逆もどりするのかと思った。


と、師は疲れ果てた人のように、あえぎあえぎいった。


しっかり摑まって。こんな梯子でもなければ、いっさいの悪から逃げだせないのだから



ボッティチェリの描く『神曲』挿絵では、アニメーションを思わせる連続画法によって、大悪魔の脛毛をつかみながら空中を回転しているダンテとウェルギリウスの姿が描かれている。その絵を見るとどうやら、重力の中心部でもある地獄の最深部で空間そのものがくるりと裏返しになり、そこから一瞬にして地獄を完全に抜けて煉獄が出現する仕組みになっているらしいことはわかるのだが、ダンテの描写だけでは、そこがどういう空間の構造になっているのかを想像することはなかなか難しい。



・ダンテは自分の体験したヴィジョンを、ユークリッド幾何学の枠組みを使って表現しようとしているために、じっさいに地獄の最深部がたちまちにして煉獄山の麓につながるという構造を、うまく表現できないでいる。しかしこれを現代幾何学の知識に属しているクラインの壺の構造を利用してみると、裏が表に反転する地獄から煉獄への道行きは、もっとうまく表現できるようになる。氷漬けのルシファーがいる地獄の最深部で、表が裏に、外が内に反転を起こしているのである。


 地獄の住人の心は、外に現出している幻影を客観的な現実と取り違え、それに執着をおこすことによって大きな罪をなした。この罪を浄化するために煉獄山にとりかかった者たちは、心を外的現実にではなく、自分の内面へと反転させていかなければならない。



ゆえに、ダンテの前にも後にも、天国をここまで完璧に描出しえた詩人も作家も、1人としていないのである。


 それをダンテは実現したのである。天国での上昇のプロセスに合わせて、ダンテを包む空間の構造とそこを棲家とする天使たちの種類や運動形態が、つぎつぎと変化していく。天使のそれぞれにわりふられた叡智的知性の性質にしたがって、空間の構造そのものが変容していくのである。



ここに描かれている天国は、私たちの世界の外の、どこか超越的な異世界にあるのではない。天使は私たちの心の内面空間にある。(それどころか、地獄も煉獄もじつは私たちの心の内面空間にあるまばゆい光をたえまなく放出し、人間の意識などがとうてい及ばない高速度で天使的存在が運動している空間とは、私たちの心の内奥に潜む内面空間そのものにほかならない。



『神曲』は中世までに蓄積された人類の叡智と知識の一大集積体である。ダンテの時代までに蓄積された叡智と知識を一つの構造体にまで構築しえた。それは奇跡のような知と信仰の超構造である。しかし『神曲』をつくりあげようとする知的作業のおおもとになっているのは、ダンテがじっさいに体験した魂の巡歴の旅であり、心の内面空間で敢行されたその旅においてダンテ自身が「見た」世界は、諸知識が構成する超構造を越えている。





『「強い日本」を取り戻すためいま必要なこと』


日下公人、田久保中衛、ロナルド・モース  PHP研究所 2013/6/10



「戦後レジームの総決算」


・憲法改正、基地問題、歴史認識………日本では、経済(アベノミクス)の変化に加えて民意と社会の大変化が起こるだろう。安倍首相の唱える「戦後レジームの総決算」をやるなら今しかない!やばいアメリカ、瓦解する中国を横目に、いかに強国・日本を取り戻すか?3人のストロング・ジャパン派による緊急鼎談。


アベノミクスを論じるよりも、強い日本を取り戻そう 日下公人


・このことを心あるアメリカの経済学者は反省して、「われわれはこの何十年間、単にフィッシャーの貨幣数量説の周りを回っていただけだ」と言っている。とくに、アベノミクスと称されるものに欠けているのは、三番目の成長戦略である。


・しかし、いままでの「絶対反対!」や「補償金よこせ!」ではなく、形勢観望に変わったとすれば、農政改革はすでに半分成功したと言ってよい。


“攻めの農業”が実現すれば、アメリカは自動車産業保護で受け身に変わるから、安倍首相が得意とする“攻めの外交”に転じる準備が整う。


 そもそも安倍首相の政策は、第1次政権発足時から続く「戦後レジーム(体制)の総決算」の一部なのである。


<京都はユートピアだった>


・(日下)ところが、日本は平安時代には、その理想に到達していた。天皇は軍隊も警察ももたないのに、平安時代は4百年近く平安のまま続いたのです。


・その間、支配者側の天皇や公家たちは何をしていたかというと、文化をつくっていました。歌を詠んだり、物語を書いたり、絵を描いたりして、それらを娘に仕込んでいた。その娘が、他国(地方豪族)への輸出商品となった。京都の流行の文化を娘に教えて、その娘を地方豪族に嫁がせる。地方豪族はありがたがって進物をして娘たちをもらい受け、文化を学びました。


・(モース)日下さんが教えてくれた安倍首相のルーツ、アイデンティティによると、2千年、縄文まで遡れば1万年という日本の歴史が、彼の受け継いできたものにすべて組み込まれているわけですよね。


・たとえばハンチントンは『文明の衝突』のなかで、世界の文明は宗教で衝突するようになるだろうと書いています。でも日本は多神教、八百万の神です。それも先祖崇拝だけではないんですよ。土着信仰、原始的なシャーマニズムがあるし、キリスト教や仏教以前のアニミズムまで残っています。


 日本にはそういう特別で複雑な多重精神構造がある国です。安倍氏がそれを理解してくれていればいいのですが、おそらく明治の指導層はわかっていなかった。その抵抗の意味も込めて、柳田國男は『遠野物語』を書いたのです。


<柳田國男とグリム兄弟>


・(モース)なぜ柳田は『遠野物語』を書いたのでしょうか。ヒントは序文のなかにあります。「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」という書き出しがグリム童話と同じなのです。明治時代の日本ですでに翻訳が出ていました。柳田は遠野出身の佐々木鏡石と会って話を聞き、それを文語体にして文学作品にまとめて発表しました。これもグリム童話と同じ手法です。


1812年にグリム兄弟が、なぜグリム童話を書いたのかというと、ヨーロッパはキリスト教が広まると、それまであった地域や文化が衰退していきます。カトリックという言葉は「普遍的」という意味です。カトリックが宗教的にも文化的にも支配的になると、民族固有の文化は伝説のなかであるとか、古い宗教というかアニミズム、民間宗教のなかにかろうじて残されることになった。


当時のドイツはプロシアを中心に、ドイツ語を話す人たちによるドイツ帝国ができかけていた頃で、グリム兄弟はいまのうちに伝説のなかに残っているアニミズムを記録しておかないと、民俗の歴史や記憶が完全に消えうせてしまうと考えたのです。そこで彼らは伝説、童話の収集に乗り出しました。


・(日下)そうして出てきた学問がfolklore(民俗学)とethnology(民族学)の二つですね。民族学は人類学に近い。自分の国のものを研究するのではなく、文明国の研究者が他所の国へ行って、未開の人種について研究する。自分の国の伝承文化を研究するのが民俗学という考え方です。


 民族学が発達したのは植民地経営の手法に使えたからで、ヨーロッパの列強はこうして海外侵略に出て、略奪した資本で近代化を成し遂げました。産業革命で資本を蓄積したのではありません。植民地から奪ったのです。


『遠野物語』の異議申し立て>


・(モース)日本も台湾などの植民地経営をするようになって、列強の仲間入りを果たそうとします。外向けに日本を説明しようという新渡戸の『武士道』に対して、地方の日本の精神構造は「違う」と異議を申し立てるために、柳田は『遠野物語』を書こうと決めたのではないかと私は思っています。


・『遠野物語』の序文に、「この書のごときは陳勝呉広のみ」という一文があります。この陳勝呉広というのは、紀元前209年に、中国で反乱を起こした二人のことで、彼らは中国史上初めて農民革命を指揮した人たちです。


 柳田國男は『遠野物語』を明治政府に対する革命的な本と考えていたんですよ。彼は、農民や社会の底辺にいる日本人を「常民」と呼んで、支配階層ではない名誉も肩書きも権力もない普通の日本人の意味で使っています。


 粘菌を研究した南方熊楠とも交流があり、二人は明治政府のやり方にかなり反発しています。常民の日本精神を政府は軽視しているということです。


 明治憲法と日本国憲法との関係で言えば、柳田は天皇制に反対でした。『遠野物語』のなかに天皇は登場しません。


・柳田は日本国憲法の象徴天皇制に賛成し、教育勅語についても、日本人の考え方ではないと反対しています。


 それと宗教の自由を喜んでいます。彼は明治政府の宗教政策、とくに神社の整理合併政策である神社合祀令に大反対でした。村々にある神社を整理合併して、国家神道の天皇組織をつくると、共同体の結びつき、普通の日本人の精神構造が崩れてしまうと考えたからです。


 


もう一つは農地改革です。柳田は農商務省の役人で、常民である小作人のことを思って地主制度に反対でしたから、戦後の農地改革を評価していました。柳田は戦後の日本が、明治以前の昔の日本、日本人に戻ると考えていたようです。


<柳田は常民の目から、戦後の日本を高く評価していた>


・柳田の考え方は、日本には明治時代よりずっと昔から、多層な精神構造があるというものでした。伝承文化や地方文化を学んでいくと、縄文時代から生き残っているものが見つかるのです。さらに平安時代からのものが、その上に積み重なっている。


 日本の近代化がいつ始まったのかは明確に区切れません。少なくとも明治ではない。鎌倉時代か江戸時代、ひょっとしたらすべてが連続して境目自体がないかもしれない。そう考えていたと思います。


 そうすると明治・大正・昭和というふうに歴史を分けることに、たいした意味はないということになります。日本の大学で教えている歴史学は間違っています。


危険水域に入った格差大国


・ジニ係数が0.4になると、不満が爆発する危険な水域と言われています。


 2012年、中国の新聞各社が「中国のジニ係数は0.61」と書きました。これも昔の中国ではありえなかったことです。一党独裁といえども、中間層に耳を傾けなければならない状況が進行しつつあるのではないかと思います。


<NICが描く4つのシナリオ>


・(田久保)アメリカのNIC(米国国家情報会議)では、さまざまな国の10年か20年後を予測した報告書を出していますが、今回、中国について4つのシナリオが出ていました。


 現状が続くというのが、第1のシナリオです。中国の現状は、四面楚歌で、周辺国から完全に孤立しています。このような状況下で、指導部が13億人をまとめていくためには、生活水準を下げるわけにはいかない、ということが大前提になります。つまり、経済規模は小さくできません。しかもナショナリズムをさんざん煽ってきましたから、外に対して強く出ないと自分たちの立場が保てないのです。


 


アジア全域から米軍が撤退した場合、中国の力が圧倒的に強くなり、アジアで支配的な勢力になるというのが第2のシナリオです。


3のシナリオはアメリカだけでなく、ほとんどの国が希望しているシナリオです。中国が中産階級の人々の声に耳を傾けるようになると、次にこうした新しい階層を代弁する党ができて、共産党一党支配ではなくなり、複数政党になるかもしれない。そうなれば独裁政権が一気に崩壊するハードランディングは避けられ、ソフトランディング(軟着陸)して民主化へ向かうというシナリオです。


4のシナリオは危険なシナリオです。先ほど述べたように、中国は国内の不満を解消するために外に対して強く出ざるをえません。ところが、アメリカのような国は、「何を!」と反撃します。日本は、安倍首相以外は、殴られっぱなしで、お詫びをし、お金を出し、譲歩に譲歩を重ねて、まるでサンドバック状態でした。相手が図に乗ってくるのは当然です。


 でも日本にも我慢の限界がありますからね。日本が強硬な姿勢に転じれば、中国の指導部は行き詰ってしまうでしょう。すると国内の不満を散らすために、たとえば尖閣のようなところで危ない冒険をするのではないか。その場合、中国は内部の崩壊に向かって進んでいくだろうというのが、第4のシナリオです。


 3になるのか、第4なのか、私自身もまだよくわかりません。NICは次にまた新報告書を出すでしょう。次の報告書に注目したいと思います。









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by karasusan | 2018-01-07 18:39 | 森羅万象 | Comments(0)